ここ数日、私がいるマストドンのサーバー*1では騒動というかひと悶着があって。ユーザーの差別発言やら、それへの対処やら、その対処の仕方が悪いやら良いやら政治やら正義やらなんやらかんやらあって。
で、その一連の騒動をつぶさに監視してたわけでもない私は、それらの騒動に直接なにか思うことは、そんなにはない。第一、私自身が差別や反差別などについてアレコレ詳しいわけではないから。言える立場にないというか。
ただひとつ、それらの騒動を断片的に見ていて思った……いやちょっと違うか。その前からサーバーにいるユーザー達の発言も含めて、見ていて思ったことがある。思ったことなので、特に結論もないし、解決策とかもなんにもないんだけれど。
「いやならミュートするといい」「住み分ければ良い」という発言が、1日に1回は見る。必ずどこかで誰かが言っているなーと思って。なんなら鯖主がそれを言う時もある。
私は、そのとおりだとも思うんだけれど、それでよく済ませられるな、とも思うのだ。これは誰かをバカにしたくて言っているわけじゃない。自分がそう言われて慰められたら、気が狂ってしまいそうだな、と思ったんだ。
自分の嫌なこと、嫌な人を隠すことが出来るのが、SNSのミュート・ブロック機能の良いところだ。相手と自分は違う存在なんだから、考えが合わないのも当然。だからまともにぶつかるんじゃなくって、ミュートすれば見えないから解決する。これで無事に平穏なインターネット生活ができるって話だ。
でも、その見えなくなった発言も、その人間も、たしかに存在しているわけだろう?それをそのままにしてても良いとは、私は思えない。
自分に対して悪口を言ってくる人がいたとして、その人をブロミュすれば悪口は届かなくなるかもしれない。でも、その人が「自分に敵意を向けている」という事実は、何も変えられない。時間が解決してくれるかもしれないし、してくれないかもしれない。
これは別に悪口じゃなくてもいいんだ。自分が嫌だなーと思ったことを隠してしまっても、隠しただけで根本的な問題は解決しない。ミュートは、問題解決にはつながらない。衝突を回避するための方法でしかない。
その悪口を言う人(悪口くんという名前にしよう)をブロミュしたとしても、周りの友人が「悪口くんおもしろい!」と発言しているのを見たら、悪口くんのことを思い出してしまうんじゃないか。友人もミュートしてしまうか?友人の友人はどうしよう?赤の他人だって悪口くんのことを話すかもしれないぞ。ミュートワードはどこまで機能してくれるんだろう。考え出すとキリがない。
私がとても怖がりだから、こんなことを考えるのかもしれない。
私はなるべくなら、怖いものは見ないようにしている。人もそうだし、言葉もそうだし。一度見てしまうと、ミュートしてもブロックしても意味は無いんだ。この人はこんな怖いことを言っていた(言ってきた)、という記憶はなかなか消せない。
私はすでに何人かのアカウントをミュートしているが、そのアカウントのアイコンをしっかり覚えているし、その人の名前をどこかで見てしまうと、その発言を思い出して震えてしまう。
だからもしも、今よりももっともっと怖い目にあった時に「嫌なら引っ越すといい」とか「ブロミュすれば解決」と言われたら、悲しくなって気が狂ってしまいそうだな、と思った。こんなことを考えている時点でちょっと狂っているのかな、分からない。
怖い人、怖いものをこの世から消し去ってしまいたいと思うことと、自分に見えなければそれでいいと思うことは、どちらも違うベクトルではあれど、かなり危ない考え方だと思う。
私はマジョリティやマイノリティについて知っていることは、指で数えるほどもないんだけれど。例えば自分を構成する一要素がマイノリティであって、それを攻撃されたとして。攻撃された場所から逃げたとしても、別の場所で攻撃されるかもしれない。意識的にあるいは無意識に傷つけられるかもしれない。傷ついた、傷つけた時は謝って話し合って、お互い納得できるようなアレコレが出来ればいいと思うんだけど、それが出来なかったから、やっぱり逃げるしかない。でも逃げ場がなかったら、どうしたらいいんだろう。って考える。
だから何というか……その場から逃げれば全て解決するとか、隠してしまえば大丈夫だと思っている人は、その時点で、その人の一要素がマジョリティ側にあるのではないかな、と思うんだ。逃げる場所が思いつく人、逃げる手段を取れる人。そういう人は既に、ある部分においてマジョリティだ……いや違うな、マイノリティではない、と。そう思う。
人それぞれという言葉を「緩やかな遮断」というイメージで使う時が、私にはある。誰かに何かを言われた時に「まぁ人と人はわかりあえないからね。人それぞれだよ」と言いながら、内心かなりムカムカすることがある。私のプライドをこれ以上傷つけるなという気持ちで言う時もあるし、キミの発言を理解するつもりはないという気持ちで使う時もある。ポジティブな意味で使うときのほうが、少ない。
考えが合わなくて当然。だから話し合わないといけないのに、それを「人それぞれあるからね」で話を切ってしまったら、なにもことが進まない。人の数だけ正しさがあったとしても、より正しい方へ進む努力は、しても良いんじゃないか。
なんか話が脱線したので終わる。最後に、おへそみたいに凹んでいるトマトの写真を載せて終わります。さようなら。