wander around holding a soft oval

日記や雑記を書いています。それらの違いは分かりません。

小さな日記:馬場のぼる、ニンニク、秋の洗濯

11ひきのねこが良かった

馬場のぼる「11ひきのねこ」を借り直した。

今まであまり読んだことのない・でも知っている絵本を読んでみようと思い、先々週くらいに図書館で借りた。

読んでみると、ヘミングウェイの老人と海みたいな展開があってちょっとクスッとした。そうでなくても、全体的に緩急があり、絵本らしい非現実的な構図もあって、すごく楽しかった。魚が陸に上がって枕して寝てる姿って、めっちゃいいぞ。

主人公のねこたちの動きもダイナミックである。11匹が魚に飛びかかる、11匹が湖まで歩いていく。同じ様な動きをしているのに、実際させているのに、それぞれの猫に個性が宿っている。作者が個性付けているのではなく、読むオイラが勝手に個性を感じてしまう、という具合だ。こういう絵はいい。

調べると、馬場のぼるさんはオイラの実家の近く出身であることが分かった。とてもビックリ!不思議な縁を感じたので、絵本を借り直し、また眺めたり、ねこたちの絵を模写(トレースというのか?見様見真似で書いて)したりしている。楽しい。

オイラは絵を書くのが、本当は苦手だ。細かい所が気になって気になって、全然筆が進まない。だが、馬場のぼるさんのねこたちを見ていると、細かいことはどうでも良くなってくる。尻尾が脚と同じくらい太いのに、読んでいてもそんなことは気にならない。これはいい本だ。なんというか、生きていくうえで励まされる。他の馬場さんの絵本も読んでみたいと思う。

 

体調が悪くなったりした

体調を崩した。9月に入り、寒いんだか暑いんだかよく分からない天候で、オイラの身体はすっかり参ってしまった。もともと身体が丈夫ではない。歳のせいで余計に弱くなった気が、しないでもない。

で、先週くらいに体調は持ち直した。身体は元気だし気候は涼しいので、生活が捗る。家の中をあちこち掃除して出てきた要らない物を、リサイクルショップに持っていった。その帰りに見つけたラーメン屋さんで、特製味噌ラーメンを注文した。店員さんに焦がしニンニク入れますか?と聞かれ、はいと答えた。

その日から今日に至るまで、ずっと胃腸を壊している。やってしまった。私はニンニクを特別な条件で摂取すると、胃腸をやってしまうのだ。その特別な条件とは、実はオイラも分かっていない。加熱すれば大丈夫なときもあるし、ちょっと食べてもダメな時がある。そのことを覚えてはいたのだが、焦がしニンニク味噌ラーメンという誘惑に勝てなかった。そして胃腸が負けてしまった。

毎日胃酸は逆流してくるし腸はしくしく痛いのだが、更になぜか喉が痛くなり背中や肩がコリだした。これはニンニクのせいなのか、それとも風邪かなんなのか、まさかガンではなかろうか、この気持ち悪いのは身体のどこの仕業なんだと、アレコレ心配しながら日々を生き延びていた。仕事はもう全部休みにした。

結局今は元気である。相変わらず胃の調子は少し悪いが、オイラは元々胃腸が弱いので気にしていない。したほうがいいか。まぁそのうちな。

背中と肩に関しては、今日整体に行ってメチャメチャにやってもらった。ここは治療費は高いが腕は確かで、やってもらうと自然と脚が前に出るような感覚に陥る。まるで身体と脳の距離が近くなり、指示が通りやすくなっているのだ。ここでいい気になって再び無理なこと(動画編集を数時間も休憩無しでやるとか)をしてはいけない。

喉元過ぎれば熱さ忘れるという言葉があるが、本当にそうだ。オイラは忘れっぽいから、どうかオイラに「こんにちは!そのニンニクを食べるんですか?本当に?」と聞いてくれる妖精みたいなのが、常に傍にいて欲しいと思う。いま一番欲しいのはそういう妖精だ。

 

最近見た人

人のブログを漁っていたら、「『◯◯はAだけど自分はBが好き』みたいな構文を使いたくない」ということを書いている人を見つけた。その構文が気に入らない理由を、その構文を使うような人間も含めて、こき下ろすように書いていた。

オイラには正直、その構文が気持ち悪い(本人が気持ち悪いと書いていたので)かどうかはよく分からないのだが、書いているこの人に対しては どうしようもねぇ奴だな、と思った。この人はギャグとして書いている可能性もあるなとも思った。

なぜなら、そのブログにあるあちこちの文章は、その構文で書かれていたからだ。noteはこうだけど自分がはてなで書いているのは~ とか、写真ってのは今こうだけど自分はそうじゃないコレが好きで~ とか、この界隈はアレだけど自分は~ とか。全部否定から入る。仰っている構文ばかりなのだ。2記事読んだだけでコレだ。

まさか大人になってこんなヘマはしないと思うので、きっとおそらくウケ狙いとして書いていると思う、思いたい。そうでなければ、どうしようもない奴だろ。自分が散々バカにした文章を自分で書くんだから。

オイラには正直本当に、その構文が気持ち悪いとは思わない。他者(過去や未来の自分も含まれる)と自分を比べて、自分をみつめたり、何かを語るのは、往々にしてあることだから。比較している様子ばかりを誰かに見せた時、どう思われるかはまた考えなければいけない話だとは思うが。

ちなみにその文章を書いた人をどこで見つけたかと言うと、「きょうのはてなブログ」である。編集はどういう基準でブログを評価しているのか分からない。まぁ分からない方が良いんだけどな。

 

最近見た人2

あまり行き慣れていないスーパーに行こうと思い、歩道を歩いている途中、たしか橋の上だったかな、スマホでマップアプリを立ち上げた。手元をじっと見て道を確認していた

ら、私の横を通り過ぎていった親子連れの、子どもが、私の顔を下から覗き込みながら、ばいばーいと手を振ってくれた。スマホの向こうにいる彼がとてもかわいかった。オイラはマップから目を離して、手を振り返した。父親の方は、すみませんと苦笑いしていた。100%すまなくないので大丈夫です。

その親子とすれ違った後にオイラは、またマップを確認し、よしこの道でOKだと思って歩き出した。歩いている途中で「ひょっとしたら、歩きスマホとかをやめさせるには、小さい子どもが手を振るだけで良いんじゃないか」と思ったりもした。子は宝。

 

秋支度をした

最近まで身体を悪くしてはいたが、それでも自分にできる範囲で生活をしていた。連日の雨の影響もあってか、半袖で過ごすには肌寒く感じるような季節になった。

再び寒さで体調を崩すなどということ、あってはいけないと思い、去年の春からコート掛けにかかりっぱなしの、キルトジャケットを洗濯した。一昨年くらいにユニクロで買ったもので、パフテックとかいうやつだ。今調べてもサイトには載っていない。二年経つだけで消えてしまうのか、服。儚い。

洗濯出来るかどうかをジャケット裏のタグで確認する。どのマークが何を表しているのかさっぱり分からない!消費者庁のサイトと手元のタグを見比べて、手洗い陰干しお湯禁止ということが分かった。サイトで見ると「あーこの点は温度を表してるのね」とか「へーこの横線は平干しか~わかりやすい~」となるのだが、今日マークだけを見つめても、やはり何を意味しているのか分からないのであった。

手洗いしなければいけない。なぜなら綿入りだから。しかしオイラは具合が悪い。手洗いなんぞしたら気を失ってしまうかもしれない。だもんで、ジャケットを丁寧に畳んで洗濯ネットに詰めこんだ。そして祈るような気持ちで洗濯機の「ドライ」コースのボタンを押した。洗剤は普通のを使った、普通のしか持ってないから。

洗濯機様が洗って下さったキルトジャケットを、いそいそと取り出し、うちで一番良いハンガー(肩の所がふっくらしてる)にかけて干した。で、今日、無事に乾いた!フツーだ!綿がヨレヨレになっているとか無いぞ!ありがとう消費者庁!ありがとう洗濯機!!

オイラはハウスダストアレルギーなので、冬服は着る前に一度洗う。トレンチコートだって洗うからな、もちろん自宅で。今のところうちの洗濯機がすごいのか(中古で買った)、全然困ったことにはならない。昔一度だけ、車の座席下に敷くマットみたいなのを洗濯機で洗った時以外は成功している。その時の話は長くなるから今日は良いや。

雨ばかりであっちもこっちも大変である。身体は壊れるし家屋も壊れるし。家の近くにいる金木犀が咲いたと思ったら、大雨であっという間に散ってしまった。

しかしそれでも木が枯れたわけではない。また次の機会に巡り合うまで、粛々と生活をしていこう……と書いて終えようと思ったのだが。

 

先ほどふらっと外に出たら、その金木犀の木に、蕾が出来ていた。また咲こうとしているのか。あの可愛い香りも、少ししてくる。まったくもって逞しい。

金木犀の蕾

今年はもう少し楽しめる

商売っ気

今日久々に、ほぼ日のサイトを見に行った。ちょっと前に大きく見た目が変わってからは、見る気がなくなってしまい、足(検索しているのは指を使ってだけど)が遠のいていた。

糸井さんが、東浩之さんと対談をしている様子をまとめたページにたどり着いた。東さんについては以前Twitterを使っていた時に、何度か見かけたことがある位で、あまり知らない。その時の雰囲気は割と好きだった。ページのタイトルは「論破じゃ世界は動かないから。」。そりゃそうだよなぁ、口先で相手に勝って、自分の状況は変わるかもしれないけど、それ以外はあんまり変わらないからな。

対談を読んでいて、二人が「人類の悩みや思想についてはずっと昔から出揃っていて、今に生きる俺達は延々と悩み続けているけれど、もう答えは過去の人類が出し揃えている」「というわけで人類は進歩してない」という話をしていた。進歩。

最近色んな人(オイラよりずっと年取った人)の文章を読むことが多いのだけど、その中でちょくちょく「人類は進歩していない」というワードを目にする。そしてほぼ日でさえも目にした。オイラよりも長く生きている人たちが、周りを見て自分を見て、そんで「進歩していない」と感じるなら、多分本当にそうなんだと思う。人類は進歩していない。

でも、そんなの当たり前なんじゃないか?とも思う。

だって人類は動物で、そして動物は進歩なんてしないだろ。進化した動物はいるけれど、進歩した動物っていなくないか?犬が進歩した、鳥類が進歩した、キンモクセイが進歩した。言わないだろ。

うちのワンちゃんお手出来るようになったんですよ~進歩ですわ~とは言うかもしれないが、……犬全般を指して「進歩した/してない」という判定を、下さないんじゃないか?進歩していないのが当たり前だから。

そして何より、進歩したしてない判定を下すのは、いつもいつでも人類だよな。オイラも人類の端くれだけどさ。

だからオイラよりも歳をとった人、沢山経験を積んできた人が「進歩していない」と言ったりするけれど、その判定の正否はともかくとして、人類に進歩という言葉をあてがうことそのものが、人類のというか言っている人個人の驕りではないか、とも思うのだが、どうだろうか。

リンゴってねぇ果物なんですよ、くらいの当たり前を、大仰に語る必要はあるのか。まぁ語りたい人もいるか。オイラもその質だもんな、花って綺麗だよな~って言いたい。

 

オイラは糸井さんが書いてきた本を何冊か持っている。最初は確か、古本屋で「ボールのようなことば」を買ったんだったか。今でも時々読み返して、今はこの言葉が好きだなとニコニコしたりする。

ほぼ日刊イトイ新聞の頃から、このサイトを覗きに来ていたんだが、どうも「ほぼ日」というサイト名に変わってからは、益々商売っ気が濃くなってるなと思う。だもんで足が遠のいたのだった。

商売っ気で言えば、無印良品の店舗もそうだな。決定的に 変わった!と思ったのは、店内放送が入るようになった、そのタイミングだった。アレはショックだったなー。

無印は、ただ行くのが好きだった。商品もまぁ好きなんだが、その商品が並べられている空間が好きだった。よく分からないBGMが流れていて、うまそうなバームクーヘンが並んでて、広告とかPOPも目立たなくって。無印良品としか云いようのない空間だった。

だのに、ある日突然、あの謎のBGMが止まったと思ったら「◯◯に来て下さってありがとうございます、お肌に優しい天然水の~…」みたいな、宣伝が入るようになった。いやぁアレは本当にショックだったな。結構な頻度で入るしな。

あのBGMが止まる度に、無印良品の店舗は、無印の商品を置いている売り場に成り下がる。あまりにもイヤで、メールでお問い合わせまでした。その数週間後、別の店舗でも店内放送がかかるようになり、オイラの生活圏内にある無印は全て、無印の商品売場になってしまった。

それから無印に行かなくなったかと言えば、そんなことはない。けれどもう、かつての愛着はなくなった。あれは寂しかった。暦生活というサイトがあるんだが、あのサイトも商売っ気(ry で嫌になったな。そういうことばっかりだ。

自分もああいうことをしないようにせんといかん。いや、無印もほぼ日も、今でも山程のファンがいると思うけれど、オイラみたいに「ちょっとイヤになったな」と思う人間もいるだろう。商品でも空間でも、楽しい方向に変えていって、それで嫌がられるのは仕方がないとして。商売っ気を出したことで嫌がられるようにはしたくない。そんなことで嫌がる人がすごーく少なかったとしても、でもそのすごーく少ない人を無視するのは、オイラはイヤだなぁ。

金が無いと生きていけないし、商品を売ったり買われたりするのも楽しいと思うんだが、それでもそういう態度が強くなってくると嫌だな。リアリティがありすぎるからなのかな。とすると、オイラはリアリティから距離を置きたいのかもしれない。そういう人間もどうなんだ。

 

ここ最近、色んな人の文章を読んだり話を聞いたりしていて、ふと「分かってることを語られるだけだとワクワクしないな」と思った。面白いけどワクワクはしない。期待、希望みたいなものがない。

さっきの対談でも、お二人ともめちゃくちゃ色んなことを知っているしよく考えているし、自分の中にあるものを出すのがすごく上手い。世の中の仕組みとか自分のこともよく見ているのだと思う。で、そんな話を聞いていて、納得もするし興味深いなとも思うんだけど、虚しい気持ちになる。

よく考えている人って、自分が分からないものについても「これくらい分からない・ここまで分からない」という風に、分からないなりに寸法を測れている。と思う。それは経験に裏付けられたものなんだろうけど、その分からなさが無限に広がる宇宙的なものではなく、ビニール袋に入っている水蒸気くらいに捉えている。気がする。だから分からないものに対しての落としどころが見えている。分からないもののはずなのに、大体を分かっている状態。

で、オイラはそんな人間のそんな話が、嫌いじゃないけど好きじゃないんだよな。わかんねーってもがいてる人が好きだし、謎があると輝いて見える。

さっきの対談では、糸井さんが謎について書いていて、あの部分はオイラ結構好きだったな。なんだかんだでオイラはあの人の書くものが好きなんだ。そう思わないなぁとか、それはつまらないとか言いながらも。

よし、気が済んだから今日はここまで。気が済むってのを大事にしたい。チャオ。

むらがある方が好きだ

スーパーで半額だったカボチャを昨日、晩ごはんに食べた。

固いカボチャは一旦そのままチンすると切りやすくなりますよーと聞いたことがあり、やってみたのだが、柔らかくなったカボチャがまな板の上をオレンジ色や緑色に染めてしまい、もうこの方法はやめようと思った。私がもっと年を取って力がなくなってから、またやろう。

料理家とかバズレシピとか、上手くいかないものとか口に合わないものは、かなりある。

例えば「パスタは茹でる時にしっかり塩を入れて、麺側にちょうどいい塩味を付ける。そしてソース側にもちょうどいい塩梅の味をつける。それを混ぜ合わせて食べるから美味しい」と料理研究家が言っており、やってみたがダメだった。ムラがなくてつまらないのだ。薄い所や濃いところが混ぜこぜになった方が、食べている時に(無意識に)飽きずに美味しく食べられると思う。

あとはごま油を沢山かけるのも、これも一辺倒の味になるし、くどくてイヤだ。一時期エクストラヴァージンオリーブオイルなるものが流行ったが、ああいうのも苦手だ。安い普通のオリーブオイル、なんならサラダ油で充分だなと思うことも多い。例えばサラダドレッシングを作る際は、オリーブオイルを使わずに普通のサラダ油を使って食べても美味しく感じる。マスタードなるものは家にないので和がらしとかでな。

 

カボチャを切って、更にレンジで加熱。まだ硬いからもういっちょ加熱。それでも、硬い欠片と柔らかい欠片で差があったので、柔らかさで取り分け、硬い方は豚肉の細切れとコンニャクと一緒に、研いだ米と合わせて炊いた。味付けは塩と砂糖、あと仕上げにごま。ごま油よりゴマが美味しくないか?そんなことない?

炊きあがったごはんを味見してみると、コレがなかなか美味しい。先にカボチャにある程度水を含ませつつレンジ加熱したのが功を奏したか、食べてみても全体がモサモサしない。カボチャはホクッと、そこに豚肉の硬さとコンニャクの柔らかさが合わさり、美味しくなった。これはまた作ろう。

さっき取り分けた柔らかい方のカボチャは、ボウルの中に入れたまま、出汁醤油とバターも入れて、混ぜ合わせて終わり。昔どこかで見た、カボチャのバター醤油和えだ。自分が知っているカボチャ料理の中では一番カンタンで好きだ。

この2品と、この前作っておいた鶏むね肉の茹でたもの、あとおみそ汁で晩ごはんとした。私は毎週日曜に配信をしているのだが、それが終わってからモリモリ食べた。全て配信前に作っておいて、終わってから食べられるようにしておいた。例えば焼き魚とかだと、焼き立てが美味しいと思うので、作って数時間放置には向かないと思う。カレーとかも後で食べるのにうってつけだよな。

 

今日の朝に外に出ると、街の景色の色合いが変わったことに気がついた。まだ植物たちも夏の装いであるし、日光に色はないはずなのだが、陽の光に温かみが増したように感じる。この日の神奈川県は最高気温30度で暑かったのだが、それでも景色が全然違った。

秋が近づいているのだなと嬉しくなった。よく見ると日陰も大きくなっているし、気温だって確かに最高気温は30度だが、暑さにムラがある。温度計で測れば数値として気温を調べることは出来るだろうが、その気温よりちょっと低く、または高く感じられるタイミングが、15分ほど外出しただけでも、何度かあるのだ。それが「ムラ」である。

さっきたまたま料理の味のムラについても書いたが、私はムラとかまばらさとかマーブルとか、そういう境界線がゆらゆら、グラグラしているものが好きな傾向にある。のかもしれない。これを書いていてそう思った。気温のムラ、味のムラ、考えのムラ。まぁ私は基本的にぼやーっとしており、ハッキリしていない人間だからそう思うのかもしれないな。

 

外出した後に本を読んだ。「すばらしい世界」という、ディストピアものの本だ。オススメされたので読んでみたのだが、面白いけど極端だなこの作者、と思った。小説の場合はあんまり内容を書かないほうが良いと思うので割愛するが「すごく良い生活をするか、それとも最悪の生活をするか」の二択を迫るところが、なんか変だ。

そしてその方向づけ?っていうのかな?それを(作中の登場人物や作者そのものが)強いることこそが、本当にディスなトピアじゃないかしらと思う。Aでなければ皆Bであるという論説は、世界をどっちかに傾けさせたい人にとって、都合が良すぎる。

まったく別の作品別の作者の「ハッピーになれる算数」という本を読んだ。私は算数や数学の本が好きなのだ。で、この本はタイトルにこそハッピーと書いているけれど、読んでみてもハッピーにはなれない(円周率の証明の話は面白いのでちょっとハッピーになった)。

冒頭では「不安でイライラしているのはハッピーではない、物事の仕組みを理解してハッピーになろう! 」という話から始まるのだが、その方向性が段々と変わる。ハッピーな大人になろう! となり、冷静でハッピーな大人になろう!になって、ハッピーで責任の取れる大人になろう!となって終わる。不安でイライラの話はどこに行ったのだ。

この本では作者が先生となり、架空の生徒と対話しながら話が進んでいくのだが、文章も終盤になってから「ハッピーは自分で掴みに行くもので、勇気みたいに身体から湧き上がるものであり、私から与えられるものではない」と言い放つ。不安でイライラしている子どもを、ハッピーで釣っておいて、この態度。初版2005年。

この本の中では、いわゆる暦算の問題が登場する。その中で作者は「今日は1月4日です。1月5日まで、今日から数えると何日ですか?2日ですね。それは計算をしなくても誰でも分かります」と説明している。

私は分からない。今日から数えて2日”目”と言うなら納得する。しかし今日から数えて1日”分”とも1日”経った”とも言えてしまう。その点を曖昧にして「誰でも分かります」と人を追い詰めてはいけない。

最初に取り上げた小説であれば、極端なことがかえって面白かったりもするので良いんだよな。でも人にものを教える、特に子ども向けに書かれた論説文の中で、今のような力技――論理的思考力や話術――を以て相手を納得させようとする行為を、まして納得しない奴を「納得しなかったその他」にまとめてしまうその行為を、文章中で行っている本が沢山あり、私は結構ビビる。私は難しい本が読めないので、ティーン向けの新書だったりを読む。だからなのか、そういう本に当たるし、当たるとビビる。

でもまぁ、進むべき道に迷っていて道筋を見つけたい人間ならば、力技でもって方向づけてもらったほうが良いのかもしれないなとも思う。私はこの通り、ぼやぼやーっとしており、道に迷うのが好きだからな。

 

ところで今日もカボチャを食べようと思う。食べた時にジューシーさを感じられるようなカボチャ料理が良いな。水っぽいのに当たると嬉しいし、ホクッとしててもそれはそれで考えよう。気が済んだし、スーパーに行ってカボチャ買ってくる。

しっかり歩くがしんどい時もある

夏の間はバスに乗る。暑くて歩いてられないから。

日が沈んでから会社を出るので、帰りは大体歩く。だがそれ以外は別だ。2025年よりマシだとしても、暑いものには変わりない。汗をかくのは嫌いじゃないが、汗だくの中でお客様と会うのはちょっとなぁ。

バスは好きではない。来て欲しい時間には殆ど来ないからだ。それはバスの運転手さんや運営会社のせいではないし、バスの前を懸命に走っている自転車のせいでもない。バスというのは時間通りに来ないのだ。遅れてやってくるものだし、なんなら1分ほど早くやってきてしまうものなのだ。だもんで暑い日にしか乗らない。

 

最寄りのバス停で、暑い中立ち続ける。昔はここに大きな木があって、それが日差しをやんわりと防いでくれていた。今は邪魔になったのか、切り株さえもなくなってしまった。木は人間よりも沢山生きるからすごいと思うのだが、人間はその木を気分と都合でアッサリ死なす。木のことを思い浮かべるので、このバス停を使うとさみしい気持ちになる。

数分遅れでバスがやってきた。席は殆ど埋まっているので座れない。立っている方がラクなので別にいい。バスは酔う。スマホなんか眺めてるとまぁー酔う。会社に着く前に気持ち悪くなってしまうので、立っていたい。自分自身が他の乗客の邪魔になるようなら諦めて座る。

殆ど席は埋まっているが、私の目の前にある二人がけの席、その奥側が空いている。私のそばつまり通路側には、女性のご老人が座っている。バス内はかなり混んでいるが、ご老人は席をつめるつもりは全くなさそうだ。

仕方がないと思う。そのまま何もせず、会社まで乗って行った。ご老人は私が降りる一つ前のバス停で、がんばって降りていった。そう、がんばって。

そのご老人は、おそらくだが、奥に詰めることが出来なかったのだと思う。多分身体の調子が悪く、降りる際に身体をずらし、その上で腰を上げて座席から降りて、という一連の行為が しにくかった のだと予想している。私の目の前に座っていたので、降りる時に思わず声をかけたほうが良いのではと思うような、身体の動かし方であったから。

たかが身体を一席分ずらすだけ、その「だけ」が出来ないことがある。

交通量が多いような道路に、押しボタン式の横断歩道があったとする。ご老人は、家から出て10m先のその横断歩道まで行かずに、車の間隙を縫って、目の前の道路を大急ぎで渡る(そして車にクラクションを鳴らされる)。そんな光景を何度も見かけた。地域性や性格の問題もあるだろうが、その他に 10m先に足を運ぶだけがしんどい という理由もあるのだ。それをどこで知ったんだったかな、確か爺さんから直接聞いたんだったか。

うちの母方のばーちゃんは、ばーちゃんの息子である叔父さんと一緒に暮らしている。ばーちゃんは97歳なのにしっかり歩く。しかし総合病院内を歩いて内科だの整形外科だのに行く時には、車椅子で移動するそうだ。しようと思えば出来るけど、しんどいのだよな。

 

だからどうしたという話なんだが。私から見たらアッサリ出来そうなことが、他人には出来ないということが、ある。そしてそれを私は気付けないことも、ある。あるのだ。

白杖を持っていたら目が悪いのだな等と、見ただけで分かる場合も多い。しかし、本当は風邪を引いていて階段を登るのも辛い大学生だっていただろうし、一見元気ハツラツだが本当は腹痛で今すぐトイレに篭りたい人だっていた、今日の仕事中の私がそうだ。

私の場合は、お客様の前で放屁ないし脱糞など出来るはずがないし、しかしお客様に「はらいたいっすわー」と言っても何の意味もなく、私が今出来ることはお客様が目の前の書類を読んでもらうフェーズ にたどり着くまで最速で仕事を進めることだ、と、普段の1.1倍の笑顔を振りまいて仕事をしていた。

そういうことって絶対にある。腹痛は仕事が終わったら何故か治ったのでラッキーだったが、老化で身体を動かしにくいとか、ずっと落ち込んでいてうまく物事を考えられないとか、いつもほんの少しだけ嘘をつき続けながら円満な関係を続けているとか、見えてないし障害とは言えないけどしんどさを感じている人って、いるよなぁ。

じゃあ皆辛いかもしれないから、皆に配慮しよう優しくしよう!って話になるのは、私はなんか変だと思う。悪いが、皆には配慮できない。絶対に、ぜっっっったいに、その手からこぼれ落ちる、いや違うな、配慮するためにわざと、こぼし落とすものがある。バス停の木のように。

それでも出来る限り優しくしたいなぁと思う。もうすぐ秋が来てくれる。バスを待つのはもうイヤだ。

最近聴いているもの・聴かなくなったもの

最近は、香山哲さんのYoutubeでの動画を聴いている。動画と言ってもほぼ静止画+語りなので、Podcastに近い。寝る前だったりご飯支度をする時だったりに聴いている。本人は、喋るのが上手くないと言っているけれど、どうかそのままでいて欲しい。

差し障りのある書き方だけど、素人っぽさが残っている方が、私は好きだ。「岸政彦のちくわ日記」というPodcastも、学者さんであるからこその垢抜けなさがあって良い。最近聴いてないが。香山さんも岸さんも、彼らなりに(多分)がんばっている所もいい。

 

どちらかと言えば……ラジオは勝手にかかっているもの、というイメージが自分の中にある。聴き始めるその動機が、より能動的なのがPodcastだ(Youtubeとかも)。だからPodcast番組と推しには、ラジオよりも、深い繋がりがあるように思う。でも自分には推しというものがいないから「番組の内容が微妙なのに活動の一環として無理に追いかける」というようなことが出来ない。

ちょっと前まで、ぼる塾さんの番組をPodcastで聴いていたが、あれは視聴を止めてしまった。美味しいものを食べる→美味がる→食べ物について語る の流れがずーっと続いていて、飽きてしまった。自分は飽きっぽく、それでいて偏屈な人間なので、1つの番組をながーく追いかけていられない。すぐに気に入らなくなって止めてしまう。あまりいいことではない、気がする。

 

微妙だと思うこと、音声配信番組に求めていないことは色々ある。同じ流れのことをやっているとすぐ飽きて視聴をやめる。だから正直、コーナーとかも全部ナシで、フリートークだけを延々とやっていて欲しいなって思っている。リスナーからの投稿を読んで話してまた読んでという流れも好きだが、その投稿はコーナーへの投稿ではなくて、フリージャンルであって欲しい。

ネタ投稿も良いな。コサキンのネタ投稿コーナーはお題がコロコロ変わるので面白い。一方ロッチさんの番組での、ネタコーナーの一部は、世間に物申す!みたいな雰囲気が好きじゃない。リスナーが物申したとして、ロッチは演者なんだから、その発言に対して批判や否定がしにくい。で、批判したらしたで場の空気が変になってくるし。聴いている私にとっては良いことがあんまりない。

投稿の内容も、書かれた文章から「この人面白くないな+この人の性格が嫌だな」と思ったら、出演者の人がいくら好きでも、その番組から距離を取ってしまう。ファンにムカついたらそのファンの推し対象からも距離を取るのと似ている。書けば書くほど、自分って心が狭いな…と思えてきた。

番組内でゲストが来るのもちょっと困る。私はゲスト回は全てスルーする。私はその番組の出演者が語る内容が好きで、というかその番組の内容が好きで聴きに来たのに、聴いてみたら自分が求めていたいつもの番組の内容と違うわけだ。違う番組を聴いていることと同じ。これが例えばラジオなら、仕方がないので聴いていられる(し聴いていると面白かったりすることも多々ある)のだが、Podcastだもの。じゃあ結構です、となってしまう。飽きっぽいならゲスト回なんて大好物だろ!って自分でも思うのだけど、そうはならないのだ。

 

気に入らないと言えばこういうこともあった。愚痴のような話ばかりですまない。

しばらく配信を休んでいたとあるPodcastが、先日急に配信を再開したのだ。地方でのラジオ番組のアーカイブを、Podcastに投稿していくスタイルだった。番組の内容自体は実に面白く、いつも追いかけていた。

半年ほど前、2026年1月から、Podcastの更新がピタッと止まった。調べてみると、地方のラジオ番組自体は何事もなく放送されている。Podcastだけが止まったのだ。それから何の音沙汰もなく数ヶ月が経ち、もうPodcastはやめてラジオ一本でいくのかなーと思っていた。

で、今年の8月上旬に、これまでPodcastに投稿されていなかった半年分の番組アーカイブが、一気に公開されたのだ!嬉しかった!……のだが、番組内でも、番組のお知らせをするSNSアカウントでも、Podcastを休止していたことには触れてくれなかった。Podcastを始めた頃は、番組内でも宣伝していたのに。

そんな番組に対して私は不誠実さを感じ、あれだけ好きだった番組の視聴を、やめてしまっているのだ。その程度のことで好きだったことをやめてしまうそんな自分を、矮小な存在に感じてしまい、友人に相談した。「それは絶対クレーム入れたほうがいい」と、私よりもずっと怒りつつ提案してくれた。びっくりした。もしかしたら私の方でお知らせを見逃している可能性もあるかもしれないので、番組宛にや~んわりとメールを送った。どうか私の見逃しであって欲しい、メールを無視されて欲しい。

 

ううーん。やっぱり苦手だ。自分の好きじゃないものを語るのは。不平不満はいくらでもあり、口をつつけばいくらでも出てくる。しかし、それを語る自分を、私はイヤな奴だなと思うので、こういうことを語るのは苦手だ。清く正しく美しくありたい、冗談でなくて。

不平不満というわけではないのだが……この前から「ぼ◯ぼの」というアニメを観ている。知っている人も多いと思う。Youtubeの公式チャンネルがあり、偶然◯のぼののことを知って、毎週更新される回を欠かさず観ていた。私は丁度ぼのぼ◯世代らしいのだが、なぜか今まで観てなかった。それを後悔するくらいには面白かった。

のだが、今公開されている140話を観ていたら、スゲー嫌な奴が登場したのだ。ぼの◯ぼのにも乱暴者や変なやつは出てくるのだが、毎回救いがあるというか、納得出来るというか。まぁ良いか、と思えていたのだが。140話の嫌な奴は、別の登場キャラクターを酷い目に合わせて、その回が終わってしまった。ただ酷い目にあったキャラクターが可哀想で終わり。えぇ…と思ってしまった。

私はああいうキャラクターがどうも苦手だ。どれだけコメディータッチに描かれていても、不憫でならなくなる。嫌な奴が苦手というよりも、そんな奴に酷い目にあわされっぱなしのキャラが苦手なのだ。こうなってしまうともはや、ギャグとして観ていられなくなってしまう。笑えないのだ。子供の頃からどうも苦手でなぁ。ギャグ漫画で言うと、スーパーマリオくんなんかは登場人物全員酷い目にあうので面白いんだが、ただ一人だけ酷い目にあっていると、ただ虐められてるようで。ギャグをギャグとして受け止められないのは、悪いところだよなーって思うのだが、その受け止め方がこの歳になっても未だに分からない。

 

なんの話をしているんだか分からなくなってしまったので終わろう。終始私が好きじゃないものの話をしてしまって恐縮する。好きなものを好きでいるのは、運が何よりも大切だな。

お盆に身の回りを整理する

お盆に入ったので、毎年恒例行事。上着を洗濯した。オイラは普段会社に置いてある上着を着て仕事をするんだが、あまり汚れないのと、会社でしか着ないのとで全然洗濯しない。それでもお盆と年末年始には持って帰って、ワイドハイターに漬けてから洗う。なんとなく見た目がスッキリさっぱりする。家の台所のシンクも、ぱっと見汚れてなくても、泡ハイターとかで洗うといい感じになるのに似ている。ハイターの匂いは嫌いじゃない。

お盆休みの前日、会社でオイラが上着をカバンにしまっていると、それを見かけた事務さんに「キミは自分のものを綺麗に使おうとするところがいい」と褒められた。ありがとうございます。まぁ確かに、オイラより若い子たちは上着のそのままにしており、襟元がうっすら黄ばんでいるようないないような、そういうのもあったりもする。だがそこは、若さで補えている気がする。

昔聴いていたラジオで「年取ってから古着着るじゃん、そーすっと全然カッコよくない、ただ古い服を着てるだけの中年になっちゃったんだよねー」と、清潔感もあってスタイルもビシッとしている人が、自虐的に語っていたのを覚えている。古着にも状態があるので一概に言えないと思うが、でも言いたいことは分かる。だらしなさとかをカッコよさに出来なくなる。漫画で言うと、銀魂の坂田銀時いるだろ、あの人も60歳であんなだったら全然カッコよくないと思う。ということで、今年も上着を洗うのだ。

清潔感と言えば、今私はチェックのシャツが欲しい。首までボタンがついてる半袖のシャツ。以前伺ったイベントで、DJの女性がそういう服を着ていて、おーピシッと着てるとカッコイイなーと思ったのだ。それからどこかに買い物に出かけては、あの時見たチェックシャツを探している。家に服はそれなりにあるんだが、アロハっぽい、ダラッとしたシャツばかりなので、今の気分にそぐわない。今年のお盆は服の片付けもしよう。

毎年、お盆に実家に帰省しない。お盆中は実家が忙しいので、帰ると煙たがられるのだ。だもんでこの時期は暇である。暇なのでこんなブログも書いている。

 

お盆休みの恒例行事・靴の補修もした。革靴を半年に一回磨く。本当はもっと頻繁にケアする必要があるのだろうけど、面倒なのでやらない。全くせずに駄目になったら捨てる、ってのよりは良いだろう。革靴の修理屋さんに持っていっても良いが、そこそこ高いので、あちこちからかき集めたシューグッズで、DIYしていく。

今回は靴の先や側面に小さな穴が空いていたので、パテで埋めてヤスリをかけ、そこから補修をするような感じでやってみた。近くで見るとボコボコしているように見えるが、オイラが”履いている”靴を近くで見るには、ノームくらい背が低くないといけない。だから多分大丈夫。

そんなにいい革靴じゃないので、買い替えることも出来るのだが、使えるうちは使いたい。気に入っているので。なんでもかんでもポンポン捨てるのは趣味じゃない。

……と書いておいてなんだが、仕事用に使っていたジェットストリームの多色ペンを捨てるかどうか悩んでいる。いざという時にインクが全然出ないのだ。同じ紙の端っこにぐるぐるーってやったら出るのに、いざ書こうとするとカッスカスなのだ。おちょくられている。これが動物なら「んも~どしたのよ~」と頭を撫でたりもするが、相手はペンである。ウニなら食べるがuniなら捨てるしかない。

ということで、先月くらいからお試しに、アクロボールの多色を使っている。これが結構いい。ジェッストはインクの出だしがスッキリしていて、油性ボールペンぽさがないと思う、ジェッストはジェッストとしか言いようのないインクだと思う。対してアクロボールは書き出しが少しかすれる、油性ボールペンらしさがあるが、こちらをおちょくってくるようなことは無い。かすれは出だしだけで他はほぼ無く安定感がある。

あとはグリップの握り心地か。高いペンだとグリップの部分が裸?ゴムが無い?なんて言えば良いのだろうなアレな、見た目はスタイリッシュだが、オイラは滑るし硬いし使いにくい。フツーのゴムグリップが好きである。オイラが学生の頃はドクターグリップが大流行して、みんなこぞってあのムニムニした触り心地のペンを使っていた。オイラは高くて買えなかったな。100均で買ったよく分からないペンを使っていた気がする。

 

まとまった休みがあると、身辺整理をよくする。生活を見直すというか整えるというか、そんな感じだ。オイラの一番の趣味は「生活」なのでな。

そうそう、このお盆休みで「スマホでLINEニュースを見られないような設定に変えられた」のだった。LINEニュースを一通り眺めて最近知った出来事は「ひろゆきが政党を立ち上げる」だ。心の底からどうでもいい。この世の中には 愛したいどうでも良いもの が星の数程あるが、これはそうではない。それ以外の出来事は何も覚えていない、ただ「あーあ」という後悔する気持ちだけが残る。LINEニュースを見て得したことがない。なのに見てしまうのだ。

ということを友人に話したら、スマホを貸してみろと言われた。預けたら設定を変更され、LINEの下部メニューからニュースを消されてしまった。そんなことが出来るとは知らなかった。オイラのスマホからはもうLINEニュースを眺めることは、出来なくなった。良かった。命の恩人である。

ニュースは知りたい時にNHKやら新聞やらで知るので別に良い。偏向報道とか古臭いと言われることが多いが、偏っていて古臭いことが分かっていれば、それで良いのではないかな。オイラ自身、中立である自信が無く、決して新しくもない。開き直っているのではなくて、中立であり常に新しくあるというのは、すごく難しいことだと思うのだ。

最先端や真ん中という言葉は、時間と空間とを数直線や三角形状に捉えているからこそ生まれる言葉だ。しかし、時間や空間を球体のように捉えると、表面的な真ん中や最先端は、存在しない。球に中心はあるけれど、それは外側から見えるものでもないし。中心と重心は違うしな。

なんだかよく分からなくなってきたので終わりにする。これから昼ごはんを作ってアイロンがけをするのだ。チャオ。

本や言葉についての小さいこと

ことこと

図書館のサービスを使って、本を予約した。高山なおみさんの「毎日のことこと」という本。私はたまたま手に取った「気抜けごはん」で彼女のことを知り、それから日々ごはんシリーズを少しずつ読んでいる。すごく気に入っているので、少しずつしか読めないし、また同じ本を読んでしまうので、いつまで経っても日々ごはん全巻を読破出来ずにいる。

図書館に出かけて本を受け取り、電車の中で次は何を借りてみようかと、高山なおみさんのことをブラウザで検索した。すると、彼女が「日々ごはんシリーズ」を完結させるというニュースを見つけた。

へー、と思った。あまり悲しくはなかった。薄情かもしれないな自分は。

自分は高山なおみさんの考え方、いやなんだろうな、ものの捉え方?が好きだ。野性的というよりも自然的、だがスピリチュアルってわけでもないし、アウトドアっぽくもない。なんとも不思議な人だ。正直よく分からない、掴みどころのない人だと思う、そこがいい。

人間は、知らないことに迫るため、論理や神秘で以て正解を出そうとする。しかし彼女の場合はなんというか、正解に辿り着こうとする素振りがない。思い悩むこともあるが、いつまでも問題をこねくり回すこともない。自身が風に吹かれて飛んでいき、気がついたら答えの一つを見つけている……そんな感じに見えている。

見えているだけなので本当の所は分からないが、それは他のすべての人間だってそうだ。見えている部分、つまり彼女の書く書籍の雰囲気が、とにかく好きである。

「毎日のことこと」も面白かった。読んでて思ったが、ポジティブな文章だな。そこも好きなところなんだろう。これは村上春樹のエッセイにも感じるところだな。自分は本当にネガティブな人間で、そのネガティブさが毒のように、いつも私を苦しめるのだが、彼ら彼女らの文章に触れると、その毒が薄まるような気がして、助かっている。

風呂敷を畳むには、気力も体力も相当に必要だ。畳めてすごい、と思う。悲しくないのは、彼女の行為を尊敬しているからかもしれない。

 

格言

はてなでブログを巡っていた時、作家さんの個人ブログに偶然たどり着いた。そこでは「全ての物事の9割はクズ」という誰かの格言を利用していた。こういう場でこんな言葉が生まれました、私が昔読んだあの本も今考えたらクズでした、などと綴っていた。

それを読んでからというもの、本を手にとっては「この本もクズかもしれないな」「だって9割はクズなんだもんな」と思うようになり、本を読む楽しさが薄まってしまっていた。私は根がネガティブなので、そんな何気ない発言をいつまでも引きずる人間である。

今日、思い立ち、その格言について調べてみた。分からないまま引きずるより、分かって引きずりたい。

調べてみて分かったのだが、この格言は言うなれば、売り言葉に買い言葉に近い発言である。詳しい事情は割愛するが、特定のジャンルへの攻撃に対しての反論であり、それを周りが持ち上げたことで普遍的な格言に昇華された、ということだろう。

もう一つは、その作家は引用を間違えていたということだ。最初の「こういう場でこんな言葉が」の所から間違えている。この作家さんにはあまり関わらないほうが良いなと思えた。調べて良かった。

スタージョンの法則 - Wikipedia

私はあまり著名人の格言について詳しいわけではないが、諺なら幾つか知っている。「好きこそものの上手なれ・下手の横好き」なんかがそうだろう。この2つの諺は、反対の意味だ。なので状況に応じて使い分けることが出来る。

諺とは、都合の良い機会にその言葉が当てがわれることで、効果を発揮させられるものだ。諺は、ある事象が起きた後に人間から発せられる。そして諺は、考えたことや感じたことの正当性を補強する目的で使われる。……と思っているのだがどうだろうか。

なので、諺も格言も、それを最初に生み出した人以外の人間が、好きな事象と組み合わせて、好きなタイミングで好きなように使われている。まったくもってふざけていると思うが、私は諺が好きである。犬も歩けば棒に当たるなんてさ、ユーモラスじゃないかな。

一方で、私は他人の格言そのものには興味がないのだなと、調べてみて思った。その言葉を発した人間の思想や、その時の状況と照らし合わせなければ、その言葉の質が分からないからだ。普遍的な格言というものは、本当は無い。

ということで、結果として調べてよかったし、調べるキッカケとして作家さんのブログにぶち当たって?良かった。ということにする。怪我の功名に、した。

 

謎のイベントで古本を買った

先週くらいかな、ギリギリ近所で謎のイベントがあった。電車で30分圏内ならギリギリ近所という判定。予定もなかったので一人で行ってきた。

駅から10分程度歩いた。暑い。道が広いから影を作ってくれるものがなにもない。田舎は意外と影が少ないので、歩くには大変だ。道路と自然と住宅に囲まれた場所に、ピンク色の建物が見えてきた。写真スタジオが今回のイベント会場であった。

建物一階では、部屋の半分がフツー?の写真スタジオになっている。しかしもう半分では、射的が行われていたり、オシャレな食べ物、古着まで売られていた。なんだこの空間はと戸惑っていると、食べ物屋の店員さんが声をかけてくれて、ラスクと綿あめを試食させてくれた。綿あめは塩キャラメル味!買うとすげー高いので試食だけ。美味しそうなワッフルを買った。

急な階段を登って二階の部屋に入ると、更に驚いてしまった。天丼屋とカレー屋、コーヒーショップに古着屋、古本屋に花屋、DJブースに床屋まで、これらが一つの大きな部屋で出店していた。そう、今回のイベントは「近隣の個人経営の店で集まってお祭りっぽいことしよう!」という感じだった。のかもしれない。正直今もよく分かっていない。

大きな部屋に人が溢れている。建物の周りには本当に何もないのに、どこからこんなに人が集まったのだ。休日のショッピングモールよりも人口密度が高い。人々は、座って話してたり立ったままコーヒー飲んでたり、髪を切られたりしている。私はコーヒーとバナナケーキを注文して、近くのイスに座ってもそもそと食べた。最初は人の多さと異様さに緊張していたが、DJがかける?曲と人々から発せられる音を、まぜこぜにして聞いていたら、身体が馴染んできて、心地よくなった。バナナケーキが美味い!

DJというものを生で見たのだが、良いものだな。知らなかった。

コンサートって、演者?奏者?の人を応援するような形で、客である我々と奏者が一体となって会場の雰囲気を作っていくような、そういうものだと思っている。だから途中で入退室したらダメだよとか、食べたりしないでとか、そういう決まりがある。

だがDJブース(という言い方で良いのかすら分かっていない、素人なので)は、そこら辺が自由だ。好きな時にその空間にやってきて、好きに聞いて良い。人と人にまとまりがない。そこに癒される。コンサートも好きだが、なるほどこういう空間も良いものだな。

古着を眺めたり、古本をチェックしたりもした。古本屋の店長さんから、あの駅のそばで店やっているので良かったら来てくださいとも言われた。ふっふっふ。実は貴方の店については、このイベントに来る前に事前に調べてきたのだ。こんなパーリーピーポーなイベントに、古本屋が来るなんて大層変わってるなと思ってな。店長さんと本や、本屋のことをお話して、じゃあ今度の土曜日行きますねなどと話した。サリンジャーの短編も1冊買った。

さっきパーリーピーポーと書いたが、そんな感じの人はあまりいなかった。おじいちゃんが椅子に座って天丼食べてるし、1階で射的を楽しんだ親子連れがDLブースの前で楽しんでいるし、そのブースの横では若者が髪を切られているし、店員さん同士でコーヒー片手にお喋りしているし。うまく言えないが、非日常のイベントに日常を纏ったまま参加しているというのかな。自然体の楽しさがそこかしこに感じられて、なんとも言えない良さがあった。

私も小さい天丼を買って会場を後にし、離れた場所にある公園で食べた。あの建物を出てからまだ10分も経ってないし距離も離れてないのに、異世界に行って帰ってきたかのような気分。そんな気分で天丼をつついて食べた。

 

あーあの古着屋でラルフローレンのポロシャツを買っておけば良かったなーあの色良かったよなーと、今思い出しながらこれを書いた。

バナナケーキと天丼。どれも美味しかった。