wander around holding a soft oval

日記や雑記を書いています。それらの違いは分かりません。

日記 拾った傘・ナポリタン

この日の天気は曇り時々雨。差したり閉じたりが面倒だったので、普通の傘を持って出かけた。

前回のブログには、折りたたまないタイプの日傘を悩んでいると書いた。そんなもの悩まずにすぐに買えば良いのだが、それを買ったら今使っている傘がいらなくなってしまう。それはなんだか寂しいので、悩んでいる。

今の傘は、確か会社で捨てられそうな所を貰ったんだったかな。その日の仕事が終わって会社を出る直前、雨がザーザー降ってきた。傘を持ってこなかった私は、給湯室の片隅にまとめられていた「忘れられもうすぐ捨てられる傘たち」の中から一本拝借して、それを差して帰ったんだ。

その傘はどこか不思議で、でも他の傘と比べてもどこが違うのかが分からない。そんな傘が気になったので、手にとったのだった。家に帰って傘を畳む時に気がついた。傘の先っぽにマークが書いてあるし、傘の骨の部分が金属ではなかったのだ。

+TIC | Caetla(サエラ)

調べるとこの傘には、制作会社の色々な思いが込められているようだった。そうとは知らず、一番ピンときたというだけの理由でこの傘を持ってきたオイラは、なかなかにラッキーボーイかもしれない。

次の日にこの傘を会社に持っていって事務さんと話し、自分のものとした。それから……1年くらいか。この傘を使い続けているが、今のところ困ったことはない。傘の先っぽが平たいので危なくないし、骨の部分がサビないので綺麗なままだし、傘の表面にエンボス加工がされており濡れたまま畳んでもくっつきにくい。ゴミとして出会った傘だが、随分気に入った。壊れても部品を交換できるそうだ。

雨が降った次の日、骨が折れ無惨に捨てられている傘を見ると、傘もかわいそうだし、それを差していたであろう人のこともかわいそうになる。嫌だよなぁ傘が壊れるのって。

私の手が塞がっておらず、かつもうすぐ家に着くという状況でのみなのだが、私はそんな道端に捨ててある傘を、家に持って帰る。そして分解して、次のゴミの日に出している。その方が、傘も浮かばれるんじゃないかと思って。なお横浜市では、傘を分解して出せば金属ゴミとして無料で出して良いということになっている。

 

傘の話が長くなった。今日は友人と「有名なチェーン店のナポリタンを食べてみよう」と決めていた。そのために集まったのだ。しかし集合時間が昼飯には少し早かったので、それぞれが欲しいものを買うためにアチコチ歩き回った。

私は仕事用のズボンを1着買った。ユニクロの、スッキリとした形のもの。私は短足なので、くるぶし丈のズボンと表記されているのにも関わらず、脚の長さがピッタリであった。ラッキーだ。

今までのズボンは履き心地も良かったのだが、仕事から帰る頃にはなぜか脚が痒くなってしまっていた。綿や化繊など生地の種類の問題かと思ったのだが、調べてみると、少しゆったりと肌に触れている状態のほうが、痒くなりにくいことが分かった。

他にも生地の織り方や加工、柔軟剤などの問題もあるそうで、肌の痒みと衣服の問題は奥が深い。とりあえず密着していると痒くなるのかもしれないので、ゆとりのある新しいズボンを買ったのだった。まだ使えるのに捨ててしまうのは勿体ないので、今度ブックオフに持っていって引き取ってもらう。

先程の傘の話と少し繋がるんだが、金や土地に僅かばかり余裕が出たとしても、私はポンポンと物を買えない。その理由は幾つかあるけれど「買うということは未来のゴミを一つ増やすことでもある」とも思っているから、かもしれない。物を手に入れることへの覚悟というか責任というか、それが関係しているのかも。

そういう責任感が私よりもっともっと強い人は、ハナからユニクロで衣服を買わないかもしれないな。傘もささないかも。

 

暇なので本屋もぶらぶらした。絵本コーナーにあった本をペラペラとめくり、なんか驕ってるなぁこの作者と思いながら、ナポリタンの店に向かった。時々そういう絵本に出くわすと、少しブルーな気持ちになる。新書でも単行本でもなく、絵本で出会うと落ち込む。

うさを晴らすかのように、店でナポリタンを注文した。友人はオムレツとハンバーグが上に乗ってるナポリタンの小、私はノーマルなナポリタンの並。テーブルに置かれた料理を見比べると、明らかに小の方のボリュームが多い。これがトッピングの力かと二人で慄いた。

ナポリタンには油がしっかりと使われて作られており、その上鉄板で提供されたので、熱々。ナポリタンの小さな山を掘削するようにガツガツと食べた。食べ終わり、私は大盛りでも全然大丈夫だなと思ったが、向かいの友人の方はというと、白目をむいて寝かけていた。

食べ物にはそれぞれ好みの温度がある。冷やし中華がぬるいのはイヤだが、買ったおにぎりは冷たいほうがいい。確かジェノベーゼのパスタは少しぬるいくらいが美味しいとシェフが言っていたが、私はピンとこない。というかジェノベーゼではなくバジリコのようなものが好きだからな。ともあれ、ナポリタンはアッツアツが好きだということが分かった。

 

本も眺めたしズボンも買ったし、うまいものも食べたので満足。ダラダラせずにさっさと帰った。晩ご飯は貰い物のタラコでパスタを作って食べた。麺料理は何度食べても飽きないが、脂っこいものは昔から飽きやすい。バターは控えめにした。

湿気た海苔を焼いてバリバリかけて食べた。美味しかったです。

折りたたみの日傘

長い日傘を買おうかどうか悩んでいる。長いというより、折りたたまないタイプの日傘か。

昔、折りたたむタイプの日傘を頂いた。貰ってからもう5年ほど経ったか。モノの良し悪しを判別できるほど日傘に詳しいわけではないのだが、多分、良いものだ。

傘の表地には紺色の布を、裏地には黒色の布を設えてある。二重構造のおかげなのか、ギラギラと太陽が照りつけてくるような日でも随分過ごしやすくなる。

また、傘の柄に取り付けてあるボタンを押すと、カシャン!と開く。折りたたむ時は手動で行うのだが、開くことに重点を置いたほうが良いという、開発者の意図が垣間見える。閉じた後よりも開いた後のほうが、傘としての能力が発揮されるわけだから。

子供の頃、母にはよく折りたたみ傘を持たされた。当時の自分の持ち物の中で、鉛筆やリコーダー等の棒状のものは数あれど、伸び縮みする仕組みをもった棒は珍しい。サイズも短すぎず長すぎない。そんなところから私は折りたたみ傘が好きになり、ブンブン振り回しては壊し、その度に母に叱られていた。

あの頃の自分と比べると、モノへの扱い方は、なんぼかマシになったのではないかな。ただあの頃も、大切にしていなかったわけではないんだ。大切に思いながらも振り回していただけで。今は振り回していないだけであって、思いは薄い。

 

折り畳み傘は、折りたたむのがめんどくさい。それが問題だと感じている。傘が悪いのではなく、私が悪い。

めんどくさがりの私は、子供の頃は折り畳み傘を開かずに使っていた。持たせた傘を使わず濡れて帰ってくる我が子を見て、母は随分呆れただろうな。大人になったらまぁ、多少はその面倒さに折り合いをつけられるようには、なった。なったのだが……。

この傘は、閉じている状態でボタンを押すと、開く。逆に言うと、傘を畳み切ってボタンを押すまでは、決して開くことは出来ない。その仕様が困りごとに繋がる。

例えば狭い道、大人が二人横並びになってギリギリ通れるくらいの歩道を、傘をさして歩く場合。向こうから人がやってくる。邪魔になるだろうと傘を少し閉じ――傘の開き具合をしぼませる、と書いたほうが伝わるか。しぼませたまま人とすれ違い、再び傘を開こうとする。

が、もうこの傘は開いてくれない。しぼませただけで、畳みきってないからだ。

なので一度傘を完全に閉じ、伸びた傘の芯の部分を手で押し縮め、折りたたんだ状態にもっていく。そこで改めてボタンを押して、傘を開くのだ。この手順を踏まなければ、傘は開きもせず、また縮みもしない。萎びた小松菜のように、だらしなく頭を垂れるばかりだ。

外出中にたった一度、この手順を踏むのであれば私も気にしない。しかし何度も折りたたまなければいけないとなると、面倒な気持ちが顔を出し始める。その上この折り畳み傘は、日傘である。天気が悪い日のお守りとして携帯するものではなく、天気が良ければ必ず出番があるものだ。つまり通常の折り畳み傘よりも、使用する頻度が多いのである。となると当然、先程書いた状況に陥る回数は増える。入道雲のように、面倒な気持ちが膨れ上がる。

そのため去年は、少し日差しが強いだけなら傘を開かず、我慢をしていた。しかしこれでは日傘を携帯する意味がない。雨に降られても傘を開かなかった子供の頃と、今の私は何も変わっていないのだ。

 

折りたたみを諦めて、嵩張るが開きやすい、長い傘を買おうか。開きにくいがコンパクトな折りたたみ日傘をこのまま使うか。悩む。

つくづく思うんだが、便利なものを手に入れると、また別の不便が付き纏うものだ。等価交換のように1つ便利になれば1つ不便になる…というものでもない。1つの便利に3つも4つも不便が鈴なりになってぶら下がってくる。等価交換というのは、漫画の世界の話だな。

久々に休んだ日0402

今日は休み。久しぶりの休みというわけでもないが、昨日の晩から「明日は休みだ!」という嬉しさに包まれていた。

先週は用事があって北海道へ行き、それなりにのんびり過ごした。しかしオイラはどうしようもなく飛行機が苦手なので、行き帰りの機内で全身ガッチガチになり、首から腰から全身凝り固まってしまった。

なぜ皆平気な顔をして乗っていられるんだろう。オイラは泣き叫ぶのを我慢して冷や汗をたっぷりかき「しぬ」と小声で呟きながら乗っていたのに。隣に座っていた人はさぞや迷惑だっただろう。

 

飛行機の話はもういい。その後魂が抜けたように過ごし、年度末の繁忙期に突入。ニコニコ〜っと愛想を振り撒きながら仕事をした。

客と仕事をするのは好きだし楽しい。つい愛想をサービスしてしまうが、それも自分のいいところだとも思う。客観的に見て、極端に仕事ができるわけではなくても、ご機嫌な奴が近くにいるだけで、同僚としてのオイラも客としてのオイラも嬉しいと思っている。

というか、ご機嫌でいるのは体力や気力、そして努力が必要だ。それが日々出来ている奴を、オイラは尊敬する。そしてそういう奴と仕事をしたい。例え周りがそれを求めていなくても、一緒にいたい自分となって仕事をするのが目標である。

しかしそれでもやっぱり、色々溜まるものはある。特に昨日は色々アレで、お前らはよ異動しちまえと思いながら、その気持ちを跳ね除けるかのように元気一杯働いた。だもんで余計に、今日の休みが嬉しいんだと思う。

 

昨日の夜は久々に、丸美屋の麻婆豆腐の素で麻婆豆腐を作る。普段は素を買うと割高なので、家にある調味料で麻婆豆腐を目指して作っており、人からも好評を頂く。

しかし自分の好みの味から外れたものを食べたい時もあるし、献立を考えるのも億劫な時もある。そういう時に丸美屋に助けてもらう。いちいちサイトで麻婆豆腐の作り方を検索するよりスーパーに寄った方が早いかもしれない。

麻婆豆腐は美味かった。さすが「まぁぼといったら まるみや」である。甘口が好きだ。豆腐をたっぷり入れて少し煮込むだけで、こんなにも美味いものができる。天才だ。あのとろみ粉も良い、ただの片栗粉と違ってダマになりにくく、香りもついている。毎回これでは飽きるのかもしれないけど、たまに食べるとホッとする。一周回って家庭の味だ。

 

んで今日。予約していた本を受け取るために図書館へ。そこは大学の敷地内にある。遠くの方で若い声が聞こえる。サークルの勧誘だ。ここの大学って賢賢な人ばかり集まるんだよな。それでもあんなにでかい声でワイワイやるんだな。良いな。

喫茶店にも立ち寄り、サンドイッチとアイスコーヒーを注文。ここはサンドイッチに拘っている気がする。小さいけど美味い。

隣の席では、おばあちゃんとその孫が話している。孫のほうが、即売会かイベントにコスプレして行った話を、ばあちゃんに話している。ばあちゃんもノリノリで推しの聞いている。とても微笑ましい。間柄がよくわかる。

オイラの方は、Spotifyの調子が悪く、自動で次の曲が再生されない不具合を調べていた。繁忙期前からその症状があったんだが手が、いや気が回らなかった。アプリを再インストールしたらバッチリ直った。こういうことが出来るのが、オイラにとっての休日である。

喫茶店を出て、道すがら吉野家に入る。学生の皆さんの邪魔をしないように、ささっと食べて帰る。

 

んで今はこのブログを完成させるべく書いている。なんだが日が沈んでからググッと寒くなった。途中晴れたのに。晴れて雲がなくなっちゃったからかね。

家に帰ってからは、スニーカーのゴム底の部分を補修したり、コンロとか蛇口周りとか、キッチンの辺りを掃除したりもした。忙しいとこういう所が疎かになる。別になっても死ぬわけじゃないが、綺麗だったら気持ちがいい。気持ちが良くなるその行為は、忙しいと出来ない。矛盾している気がする。してないか。

すっかり休めた気分だ。また明日からご機嫌でいられると良いな。まずは明日、内科でコレステロールの検査だ。

声が好きだし

オイラは自分の声が結構好きだ。だもんでカラオケに行くと気持ちがいいし、もっと気持ちよく歌いたいなーって思っている。

録音した声を自分で聴くのがイヤな人ってのは、結構な割合でいるそうだ。今はPodcastとか動画配信とかで自身の声と向き合うことが多いだろうから、そういう人は困るだろうな。そんな人は、声を音声として発信しないのだろうか。いや、どうしても発信したい理由があれば、我慢してやり続けるだろうな。

 

youtu.be

オイラは実況プレイ動画を拵えてサイトに投稿する活動を、15年くらい続けている。だから自分が喋っている声を、画面越しに聴き続けることを15年ほどやっていることになる。初めて録画(録音も)した時の自分の声を聴いた時は「おっなかなかいい声じゃん?」と思った。好きな声だ。オイラは自分の声とか顔とか手とかが結構好きだ。

長年自分の喋っている声を聴いている。マイクや環境の変化によって差はあるが、いつも同じ声。「マイクが変わると聴こえ方が変わる!いい声に!」という見出しでマイクの紹介をしているサイトがある。でも、スーパーで買ってきた冷凍のサバが、調理法によって生のアジになることは無いだろ。本質は変えられない。ボイスチェンジャーを使ったら大きく変わるだろうけど、それはサバもアジも加熱してほぐしてツナ風缶詰にしているのと同じだしな。オイラが幸運なのは、自身のイワシ、じゃなくて声に満足できるような感性を持っていることだと思う。

 

長年活動していて、ひとつ心配なことがある。「鏡に写った自分に向かって『お前は誰だ?』と言い続けると気が狂ってしまう」という話を昔に聞いた。オイラは怖がりなので絶対にやらないのだが、PCから聞こえてくる自分の声を、四六時中聞いていたら、同じようなことにならないのだろうか。画面の向こうにいる人物と、ここにいるオイラで、分離したりしないだろうか。分離とまではいかなくても、むにょ~んと延ばした餅のように、距離が離れたりしないのだろうか、と。

自分が狂ったりボケたことを、自分は気付けないものだろ。だから、ひょっとしてオイラはやんわりと気が狂ってたり、自分が自分じゃなくなったりしていないだろうか、と、そう考えたりするのだ。変だろうか。

 

動画投稿活動をしていて、オイラの声が良いとか好きとか言ってくれる人もいる。ありがたい。その一方で喋り方が気に食わないとして、色々と誹謗中傷を受けたこともある。声の質と喋り方はまた違う。喋り方なら改善が可能だと思うのだが、余計なお世話である。

こちらが不快になるコメントを書き込む人は、今もまぁアレだが、昔はもっとアレだった。動画投稿サイト上で、こちらが取れる行動が、昔は非常に少なかったからだ。だもんでやりたい放題で、ボロカスに書き込んでも困ることはなかったのだろう。

そういう人は、今はもうすっかり忘れてしまったのだろうか。自身がインターネット上で他人を攻撃したことを、忘れてしまうのだろうか。忘れられるのもイヤだが、覚えておかれるのもなんか気持ち悪いな。オイラが忘れてしまうのが一番いいんだろうな。なかなか上手くはいかないのだけれど。

 

コメントで、声が良いと言われることはある。しかし、歌が上手いと言われることは滅多にない。動画内で気分が良くなって歌うことがあるんだが、下手とも上手いとも言われない、どの人も無感想である。

オイラが歌が極端に下手というわけではなく、多分興味がないのではないかな、と思う。配信中に音楽やラジオの話をしてもウケが悪かったりする。

オイラは散歩が好きで、人のラジオやPodcastが好きで、読書と美味しい定食が好き。コーヒーも好きか。あとは自分の服飾を手入れするのも好きだ。もっと沢山好きなものはあるんだが、こういうことを動画内やSNSで発信しても、なんのリアクションも貰えなかったりする。オイラの話がつまらないのかな?と思ったりもしたんだが、友人に相談したら「それは単に見ている層とお前の興味のあるものが被らないんだよ」と言われた。

確かにオイラは、ゲーマーと呼ばれるようなタイプではない。それにインターネットに詳しいわけでもない。上で書いたこと以外、例えば映画にアニメに漫画は全然触れないし、他のYoutuberさんの動画とか殆ど見ないもんな。世界史が好きな花屋さんが、客の前で世界史の話をしても、多分ウケないよな。体感としてそんな感じがする。

昔は、オイラの話が面白くないからだ…と落ち込んだこともあったが、友人にそう言われてからは、ノーリアクションでもあまり気にしないことにした。ゲーム実況者はゲームの話をしていればそれでいいのだ。

が。したい話があればするし、歌いたければ歌う。それはオイラの気分で行って良い。なぜならオイラの動画はオイラの発信、というか発散のために作っている所が大きいからだ。

話さずにはいられない。お喋りが好きとか得意とかそういう話ではなくて、身体に溜まった…おしっこ?を排泄しないと、病気になっちゃうだろ。そんな感じだ。オイラのそれを聞いてもらったりもらわなかったりするのは、他者承認欲求と関係あると思うのだが、出力するかどうかには他人は関係ない。

 

と、こういうことを書きながら、最近投稿した自分の動画を見たら、歌が上手いというコメントを見つけた。何年かぶりに歌に対してリアクションを貰ったな、どうもありがとう。

透かす不知火 偽物のカード

実家の母から荷物が届いた。自身が今パートで働いているスーパーで、いろいろ選んで買った模様。オイラももう一人暮らしをして長いので、別に荷物は送らなくて良いのだがとは思っている。でも、それは母に伝えないでいる。

母は買い物が好きだ。食料品をとにかく買う。実家にある「元オイラの部屋」は、今や母の食べ物倉庫になっている。子供部屋に冷蔵庫が2つか3つあるし、棚も押し入れもパンパンだ。実家には娯楽と呼べるものがTVくらいしか無く、あとは小さな暇つぶしが転がっているだけだ。だもんで買い物が、母の一番の楽しみになっているのだと思う。ここで「もうオイラもいい歳だし…」とは、口が裂けても言えないのだ。

荷物が無事に届いたと、母にTEL。「別にお礼なんていらない」と言われる。電話の向こうでは完全に真顔だ。相変わらずである。お互い風邪をひかないようにとか、納豆を食べるとコレステロールに良いけれど、芸能人の某が食べすぎて痛風なったらしいぞとか、そんな話をして電話は終わった。あ、今度は玉ねぎドレッシングを送るぞとも言われた。

 

実家からの荷物には、小ぶりで少し萎びた不知火が入っていた。柑橘類はオイラの好物だが、特にデコポンとか蜜柑とか、剥きやすいのが好きだ。グレープフルーツは味が好きだが中々に食べにくい。

キッチンに立ち、不知火を手でむく。めりめりとやると、中から少ししぼんだ果肉が出てきた。新鮮とは言えないが、ありがたいことだ。ひとつもいで、食べてみる。ほら美味い。しなびていても傷んでも美味いから、果物はすごい。

天気が良いので、眼の前の窓を開ける。青空に不知火のひとふさを透かしてから、口に入れる。種が入っているものをそのまま食べると、どうにも美味しくないもんで。窓の外の景色にすかしては、またひとつ頬張る。

果物は大抵、キッチンで立ったまま食べる。皮の処理も簡単だし、手が汚れたらすぐ洗える。果汁をこぼしても安心。あまり行儀はよろしくない。しかしなぁ、キッチンで丁寧に果物を剥いてから、皿に盛り付けてリビングに運び、それから食べるなんて、まどろっこしいじゃないか。グレープフルーツとキッチン立ち食いの相性は抜群だぜ。

それに、外を見ながら果物を食べるのは、結構気持ちがいいもんだ。清々しい気分になれる。数年前くらいから、気分がどんより落ち込んでいる時は、暑かろうと寒かろうと家の窓を全て開け、外気をガンガンに取り込みながら生活する。窓を開けた瞬間、外の空間と家の空間が繋がって、まるで物凄く大きな空間にいるような気分になる。

 

母が送ってくれた荷物の中に、わかめスープが入っていた。リケンのわかめスープなのだが、パッケージが紙でできている。プラスチックごみを減らすためなんだろう。しかし、昔のパッケージで見慣れているものだから、紙に印刷されたスープの写真やロゴを見ていると、ニセモノなんじゃないかという気持ちになってくる。

材質だけが違う、ただそれだけでホンモノっぽい、ニセモノっぽいなと感じる。まぁ確かに、有名な絵画が木の板に印刷されていたら、それは明らかに別物だなって感じるから、当たり前っちゃ当たり前なのだが。でも、紙でもプラでも使用するには問題ないのにも関わらず、真偽判定をしてしまうこの感覚が、なんだか面白いし懐かしい。

オイラが学生の頃、遊戯王カードが流行っていた。今はゲームでデジタルなカードゲームに昇華されているが、オイラの世代はバリバリに実物、つまり紙で遊んでいた。5枚で300円だったかな。大ブームになると、偽物が出回るのが世の常である。

地元の夏祭りの日、広場には出店がたくさん並んでいた。その中に、遊戯王カードのくじ引きがあった。1回500円で5枚。オイラはそのくじを引いた。確かエルフの剣士くらいのカード、つまりコモンカードばかりが当たったのだ。

そのカードを触ると、通常のものより明らかに、薄い。半分くらいの薄さしかない。頭上に持ち上げると、光が透けて見えるほどだ。

それに印刷がぼやけているし、印刷されたイラストも中心からほんの少しだけ左下にズレている。ここでオイラは偽物であることに気がついた。

が、オイラとしてはどうでも良かった。引いた5枚のカードには、今まで所持していなかったものも含まれていたし、カードには1枚ずつ丁寧にフィルムに入れられていた。出店のオッチャンの優しさを感じ、感謝すら覚えたほどだ。

次の日、それらのカードをデッキ(カードの束)に入れて、友人たちとカードバトルをした。彼らからは「お前それ偽物だろ」「ダサっ」と笑われた。オイラには、なぜ笑われるのかが分からなかった。だってこのカードは、カードバトルするための道具、トランプの札みたいなものだ。バトルさえ出来れば役目は果たせるのに、なぜダサいなどと言われなければいけないのだろう。

他人からバカにされて惨めな気持ちになり、遊戯王カードから足を洗った……となってくれていれば、無駄金を使わずに済んだのだが。オイラが気にせずニセモノのカードを使い続け、むしろそれをオイラがネタにするものだから、周りもあまり気にしなくなった。それからも本物のカードを買ってはデッキを組み、バトルし続けた。おかげで随分金を使った。バカだよなぁ。

 

このリケンの紙パッケージを見ていたら、このニセモノのカードのことを思い出した。偽物でも良いって思える時と、思えない時ってあるよな。リケンの紙パッケージは、手で破きやすいし、最近横浜市はプラごみと燃えるゴミを分ける取り組みをしているので、手間がかからずありがたい。

ちなみにカードバトルの腕前はからっきしだった。

よく見ると情報が多い。わかめは美味しそう。

ぼんやり捉える0307

今日は家でゴロゴロダラダラすることが多かった。布団の上で横になり、最近買ったゲームをプレイして、飽きたら起きてPCの前に行き、SNSを眺め、また戻って本を読む。

こういうことばかりしていると、夜になって「こんな一日で良かったのだろうか」としょんぼりする。何も成さなくていいのだろうか…と不安になる。

そういう時のために、このブログはあるのだ!一日を振り返ると、洋服のアイロンがけもしたし、皿洗いだって、靴洗いだってしたぞ。おにぎりを作って冷凍するという、未来のオイラへのギフトも用意できた。すばらしいじゃないか。成した日である。

今タイマーが鳴った。あ、すみません。今この文章の1行目から、この行まででピッタリ5分かかったらしい。タイマーで測ってみたのだ。オイラは5分で250文字くらい書くのか。1000文字書くだけでも20~30分くらいはかかるんだな。ブログって、読む時は一瞬なのになぁ。儚い。儚くないか、しばらくはこのインターネット上に残るわけだしな。

 

そういえば今日は、他人のブログをいくつか読んだな。每日何件かオススメに上がってくるじゃんね、それを読んでた。その中で 趣味は人間観察 みたいなタイトルのブログがあった。少しブログを読んでみたけど、ああいうタイプの人は苦手だなぁ。

なんで苦手なのかはあんまり考えていない。よく分からないけどモヤモヤするので、あまり近寄らないようにしている。

このブログを書く前に、夜の散歩に行ってきたんだよ。その時にぼんやり考えていたんだけど。オイラは他人に対する悪口というか、誹謗中傷する……語彙?が、とても少ない気がする。悪い点を名前で呼べないというか。

誰かを嫌いになったり、苦手意識を持ったりしても「なんかイヤだな」「モヤモヤするな」くらいにしか捉えられない。

嫌だと思う気持ちがないのではない。むしろオイラは気難しい人間なので、すぐに「コイツなんかイヤだな」って思っちゃう。でも「なんか」でしかないのだ。

 

この前も、こういうことがあった。SNSで、とある人の投稿を見る度に、オイラはいつもモヤモヤしてしまっていた。別に過激なことを言っているわけでも、誹謗中傷しているわけでもないのにナゼ……?と。疑問に思って、友人にその とある人 の投稿を見てもらった。モヤモヤする理由を知りたかったからだ。

投稿をいくつか眺めた友人が一言。「コイツ、カッコつけてるねー。ミュートしといたら?」

カッコつけてる…カッコつけてる?とある人は(おそらく)成人しているんだが、大人もカッコつけるの?というか、カッコつけてる っていう、人間の様子を表す言葉、中学生以来だな聞いたの。

オイラは軽くショックを受けて、友人に沢山質問をしてしまった。なぜカッコつけてると思うのかとか、どういう状態をカッコつけてると言うのか、とか色々。

そいで、友人から聞いてなんとか理解できたのは ①世の中には大人になってもカッコつける奴がいる ②大抵それはバレるし、バレなくても人から嫌がられる ③カッコつけている奴を好きな人間も一定層いる ということだった。

色々質問したが、やはりオイラが一番びっくりしたのは友人が「カッコつけてる」と言ったことだった。正直に言うと、友人のそのジャッジが正しいかどうかは、オイラには分からない。もしかしたら本当は、もっと正確にその人の様子を表す言葉があるかも知れないし。

でもその正確性や成否はともかくとして、他人に対しての「なんかイヤ」に名前をつけたこと、それが驚きであった。*1いいのか、そんな簡単に他人を評価して。

 

そういうことがあったのが先週の話だ。それから每日「カッコつけ」ってなんだろうとか、他人に対して評価し烙印を押すことについてとか、色々考えていた。その中で、少なくとも今のオイラは、他人を評価したり烙印を押すことが不得意であるな、ということが分かった。

観察という言葉の意味は「ありのままの姿を注意深く見ること」だそうだ。*2しかし人間観察は、先程記した 観察 以上の意味があるだろ。人間観察には、見た後に推察したり、それを記録に残したりすることも含まれている。人間観察を趣味に持っている人の場合、観察して得た情報を何かに利用する。人付き合いであったり、ブログのネタであったり、評価であったり。

そういう点から考えるに、オイラは人間観察に向いていない。なんか好きだなとか、なんかイヤだなとか、そういう抽象的な評価しかしない。人を見る目がないとも言えるかもしれないな。ぼんやりとしか他人を捉えていないんだから。

ただ、自分をフォローするようでアレなんだが、オイラはぼんやりと見つめるのが好きである。フォローになってないか。他人に興味がないわけではないんだよな。

 

例え話として適切かどうか分からないんだが……電車の中で、自分の向かいに座っている人がいるとして、その人の背中には窓がある。窓の景色はびゅんびゅん変わっていく。トンネルを通って真っ暗になることもあれば、青空であることも、ビルが見えることも、色々ある。

その景色によって、その人の雰囲気って変わらないだろうか。そりゃあギャンギャンにタトゥー入れてて目鼻にピアスしてる人が向かいに座ってたら、どんな景色でも怖いし、もうそっちをジロジロ見ることも出来ないだろうけど。でもそういう人の背景が、桜並木だったら、ちょっと見え方が違う。

それは、その人の境界線の外側が変わるからってのもあるけれど、自分の気持ちも変わるからなんじゃないか。好きな景色、嫌いな景色、色々な背景によって自分の心持ちが変わり、それによって他人を見つめる眼差しも変わるんじゃなかろうか。

自分の状態によっても、見つめる対象以外の要素によっても、対象を捉えた時の感覚は大きく変わる。そしたらオイラにとってその観察はもはや、意味のない行為になるなぁと、そう思うのだ。評価も呼び名も、コロコロ変わっちゃうだろうから。

その人とその人の周りごと、ぼやぼや~っと見ることで得られるものがあって、オイラはそれを得たい、のかもしれない。どれだけ整った顔立ちの人間でも、まじまじと見ていると気持ち悪くなるしなぁ。細かければいいってもんでもないし。

 

飽きてきたから今日はこの辺で終わろう。ブログってのは暇つぶしにピッタリだなー。書くのも読むのも。

あ、そうそう。カッコつけについて一人で考えてて唯一、オイラが分かったのは「カッコつけるとカッコ悪くなる」ということだ。恰好の 恰 とは、ちょうど良いという意味らしい。身の丈に合ってなかったら、そりゃカッコ悪いって思われるよな。

*1:流行りの言葉で言うと、言語化というのだろうか。「なんかイヤ」も言語なのだから、この言い方は間違っているような気がする。

*2:第八版三省堂国語辞典に書いてあった

温泉と本屋に寄った日0223

温泉に行く。スーパー銭湯と呼ばれるものと温泉というものの違いが分からず、大きい施設のものをすべて温泉と呼ぶことにしている。スーパー銭湯は、知らない。予の辞書にない。貴殿は温泉、貴様も温泉。ここは温泉の国である。

よく行く温泉は雰囲気がとても良い。露天風呂の方にTVが付いてるが、音声はoffになっているし、張り紙やポップも少ない。ご飯を食べられる休憩所(食堂か?)は広くて静かである。心が洗われた。

 

帰りにショッピングセンターに行き、掃除用のマイクロファイバー布巾を買う。今家にあるやつは5枚組の5枚目のやつで、買い替えずにずっと使っていたので。

別にその布巾が丈夫だったというわけではなく、単に5枚目になってから取り替えずに使っていただけである。布巾のコスパはオイラの怠惰によって成長したと言える。精神論というか、気分に左右されないか、コスパってやつは。あまり意識せずにぼんやり生きているので、コスパもタイパもぼやぼやさせている。

 

布巾を買ったあとに、本屋にも寄った。子供の本コーナーに、戦争の話をインタビューし纏めた本があり、結構驚く。パンどろぼうシリーズの隣に、表紙が見えるように置くとは、中々派手なことをする。

それ以外でも、なんとなくだが、学びにつながる本が多く紹介されている印象。社会であったり知恵であったり、教養であったりとか。

 

オイラが初めて触れた戦争にまつわる話は、ちいちゃんのかげおくりだったか。悲しい話のはずなんだが、オイラはかげおくりってスゴい!という感想を強く持っており、今この歳になってもかげおくりをして暇を潰すことがある。

あとはなんといってもはだしのゲン。戦争の悲惨さを学びたいから読んだ、というわけでは全くない。小学校の教室に置いてあったマンガがはだしのゲンシリーズしかなかったのだ。ホラー漫画や恋愛漫画と同列で、それを読んでいた。

出てくる言葉が面白い。怒っているのに「うわーい」と叫んだり、ギギギと苦しんだり。あだ名でクソ森はないだろとゲラゲラ笑ったり。主人公たちが頭蓋骨を売り歩く時に米兵に歌った歌が何故かテンポが良かったり。そういうことを覚えている。

もちろん、主人公の母親を火葬した時に母の骨が全く残らなかった話とか、ドングリがヒロポン漬けになったりとか、そういうことも覚えているけれど。あの漫画で広島弁を少しだけ覚えられた。おどりゃクソ森!

ただまぁ、どれだけ愉快な話でも悲惨なエピソードも、それは創作の可能性があるし、インタビューや自伝だとしても、いろんな立場のいろんな声のうちの一部を切り取ったものである。それを忘れてはいけない。

小さい声を大きく捉えても、でも小さく捉えすぎても良くないと思う。

 

本屋に寄ったあと、また別の本屋に寄った。すると、そこの子供向けの本コーナーは、ためにならない本ばかり並んでいた。その光景がオイラには、とても良かった。