まるっとまったりまろやかに

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風邪ひいて本読んで米担いた日の日記

眼が覚めるが目が開けにくい。上と下の瞼がギクシャクしている。もう乾燥する季節がやってきたのだろうか。私は乾燥に弱いんだ、いつも半目で寝てるから。

Siriに湿度を聞くも並。天気は快晴。むりやり布団から起きてみると、鼻がぐすぐすする。これは花粉かもしれない。そう思い服を脱いだ。花粉症の症状が出た時にいちばん大切なのは、薬を飲むことではない。今すぐ裸になりシャワーを浴びることだ。体にまとわりつくアレコレを洗い流すことが先決だ(出来ない場合は顔を洗うと良い)。

シャワーを浴びていると、背中に悪寒が走った。体の表面ではなく内側、というか芯の方にべっとりと。なるほど…これは花粉じゃない、風邪だ。はー風邪か。風呂からあがって着替える時、すでに腰が痛い。私は風邪をひくと節々に来る。季節の変わり目には必ず風邪をひくが、今年もだったか。風邪の皆勤賞があるならぜったい貰える。

思えば昨日、精神的には元気なのに体が言うことを効かなかったり、昼間だというのにしょんぼりしてしまったり、かと思えば自宅で独り演説を始めたりしていた(私は調子が悪いと独り言がデカくなる)。これらは全て低気圧のせいだとばかり思っていたが、もっとシンプルに体調が悪かったんだな。

くそーと思いながら上着を羽織ってリュックを背負い、玄関を出た。米を買ってこなければいけないし、本を受け取りに行かないといけない。人に風邪を移さないか、それだけが心配だ。心配しすぎて水筒を忘れ、1マス戻る。

 

駅のベンチで座って待つ。思わず目を閉じてしまう。なんとなく目が腫れぼったい。こういう時はいつも映画「トータル・リコール」を思い出す。映画のラストシーンでシュワちゃんとヒロインの目が飛び出すんだよ。もとに戻るんだけどさ。自分の目もあんな風に飛び出るんじゃないかと思って、つい瞼の上から押さえちゃう。

電車に乗って目的地へ。図書館は混んでいた。日曜だもんで子連れも多い。ここの図書館は天井が低いので余計に圧迫感を感じる。さっさと予約していた本を受け取る。ついでに本棚を眺めると、椅子に座ったおじいさんが、本も持たずにずっとスマホをいじっている。この人、私が図書館に入った時からずっといじってるな。何しに来たんだろう。まーしかし、皆が皆、本を読まなければいけないわけでもあるまいよ。ね。

本なんて読んでも読まなくてもいい。気が向いたら読めば良いし、飽きたらすぐやめればいい。途中から、なんならラストだけ読んでも良い。と、自分自身に言い聞かせている。そうしないと、なんとなく本を読むハードルが上がって、急に読みにくくなる。読書を高尚なものにしたくないところがある。

高尚とはまた違うけど、これがスマホアプリのように、本の右上に通知バッジが付いたらすげーイヤだなと思う。「今月は○ページ読みました」「フレンドが○ページまで読みましたよ」「この本のレビューをお願いします」「この本を読んだ人はこんな本も読んでいます」「スタミナが回復しました!貴方が本を読むのを待ってますよ!」こんな通知が本の表紙に書いてたら焚き火にくべる。テキトーに付き合いたいんだよ、趣味とはさ。

 

図書館を出る。外も施設内も混んでいるので早々に立ち去りたいが、自分の体調がそうさせてくれなかった。ちょっと離れた場所にあるコーヒー屋で休憩。ついでに借りた本を読む。椎名誠さんのエッセイは外で読むのに向いてない。噴き出しちゃうから。なのですぐに読むをやめ、荻上チキさんの「みらいメガネ」を読むことに。たまたま読んだ雑誌で連載されていて、それを読んで以来「1冊の本としてまとめて読んでみたいなー」とずっと思っていた。

エッセイではあるのだが、多様性について深く考えさせられるものでもあると思う。多様性とその尊重について何度も取り上げられているし。タイトルも「メガネを変えれば見え方が変わる」というテーマからついたものだしな。

文章としては面白いが、文の内容はそこまで面白いものではなかった。むしろ、少し嫌な気持ちになってしまった。

荻上さんは昔学校でいじめに遭ったらしい。そのため、学校に対して今も不信感を持っているようだ。それはこの本からも読み取ることが出来る。例えば子供の入学式に出席した時に、上級生たちが声を揃えて”入学おめでとうございます”と叫んだ所を見て「マスゲーム」「集団行動を求める謎の空間」などの感想を書いている。なるほど、嫌な人には嫌なんだな。

しかし私は、こういう謎の空間で集団行動を求められるのは好きなタイプだったのだ。皆で力を合わせるのは「私」が楽しい。たとえ周りがカッタリーとかメンドクセーとか思っていたとしても。こういう場合、新入生がやってくるのはウキウキするし、なんだかみんな可愛く見えるし、先輩風邪、じゃない先輩風ふかせたいし。自分一人で頑張っただけで、皆の声が重なって大きな声になるのは面白いと思うし。だから合唱とかも大好きだ。

こんなことを書くと、申し訳ないような悔しいような気持ちになる。自分と同じ立場の、つまり団体行動を求められる側からは「変だ」「いいなりになって楽しいなんておかしい」「洗脳されてる」と言われたことがある。一方で団体行動を求める側からはチヤホヤされる。違うんだ、別に求められてるからしてるんじゃなくて、したいからしてるんだよなー。でもどちらの側も分かってくれないので、あまりこのことは人前で話さないようにしていた。が、この本を読んで久々に書いてみた。

またこの本の最初には「ディズニー映画におけるプリンセスの変移と生き方の多様さ」について書かれているのだが、私はこういう話を読むと寂しくなる。多様化の話とメディアでの表現についての論説になると、なぜか王子様と姫様の古臭いラブストーリーをこき下ろされてしまう。この本ではそこまではいかないが、古い考えから新しい考えに進み、自由な生き方を手に入れようとすることを尊重するように書かれている。

なぜ古い考え方を選ぶ自由を、この本には書かれていないのだろう。新しい価値観にシフトしていくことが多様化にとって大切だと言うのか。本当の多様さとは、新しい考え方も古いのも、一緒に大切にすることではないのか。新しい価値観を肯定するためには、古いものの否定がどうしても必要なのか。古い考えを持つ人間から否定されてきた経験あるいは歴史があったとしても、それを排除せずにともに生きることは出来ないだろうか。自分たちを肯定できない存在も、受け入れられないだろうか。

と、そんなことをムゴムゴと考えながら読んでいた。しかし、この本の後書きを読んで、淀んだ気持がすっかり晴れてしまった。この本の後書き(と挿絵)はヨシタケシンスケさんが書いている。その後書きにはこう書かれていた。一部抜粋する。

また、めがねはめがねである以上、「相性」があります。

それに、あるテーマについて「当事者」かどうかで、かけられるめがねはおのずと限られてくる気がします。

しかし、当事者にしかわからないこと、できないことが、たくさんあるのと同じように、「当事者ではない」からこそできること、提案できることも、たくさんあるハズなのです。

そうか。私は萩上さんの身に起こったことへの当事者でないからこう思うのだなと、この文章を読んで気がついた。そして萩上さんは当事者だからこそ、そう書かざるをえない、思わざるをえないのだな、ということも分かった。そりゃあそうだよな。私が異性にいじめられたら、異性がイヤになるかもしれない。その私の感情と、異性の姓の権利の話はまったく全然関係ない話だ。権利は権利で、個人の嫌な気持ちは気持ちで、それぞれで大切にするべきだ。どちらにも当事者がいるんだもん。私も萩上さんも、個々の体験の当事者なのだ。

多様化を謳う人でも、当事者だからこそ抱く価値観は穿ったものになること。その考え方は「多様化」の一つであり、また多様化の尊重さえも多様な考え方の中のひとつにしかすぎないよな、ということを悟った。結果として、この本を読んでとても良かったなーと思う。腑に落ちた。

 

腑に落ちたところで再び出発。すっかり休めたので米屋に行く。実は人生で初米屋だ。ふだん米は貰うばかりで買ったことがなかったのだ。近所のスーパーで手軽に選んでも良かったのだが…こんな機会もうないかもしれないと思って専門店を選んだ。

入り口には新米の文字がデカデカと張り出されていた。緊張して入る。15畳ほどの空間に、米と人しかいない。なんだこの空間。魚屋や八百屋よりもずっと殺風景で興奮した!そして値段を見て安心。米の相場というものを知らなかったが、思ったよりもずっと安い。そして思っていたよりずっと重いな。5kgでこれか。まさか米を担いで家に帰るという体験ができるとは!これより重いものを俵に入れて庄屋様のところへ持ってって納めてたんでしょ、昔って。やべーな。昔ってColemanのリュックとか無かったでしょ?ひえ~って思いながらエッチラオッチラ帰った。

うちの実家は米を作っているが、実は、実家で作った米は久しく食べていない。もう10年以上食べてないか。よく分かっていないのだが、作った米を送ってもらえないのだ。その代わり、母が母方の祖母の家で作っている米を送ってくれる。母は「お父さんたちはアタシたちにお米をくれないんだよ」と文句を言っていた。数年前、父にその理由を聞いたのだが、適当にはぐらかされてしまった。それ以来理由を深く聞いたことがないし、多分今後も聞かないと思う。なんとなく怖いもんな。

帰りの電車から降りてベンチで一旦座る。手すりの所にお茶が置いてあった。一口だけ飲まれている。あー、飲んで満足して忘れてったんだな。私も時々やるし、それで時々駅員さんに謝りに行くもん。「仕方ないから家で捨てるか」と独り言を言いながら立ち上がり、それを拾った。2つ隣に座っていたオジサンの存在に気付かずに独り言を言ってしまった。恥ずかしい!オジサンは私の顔を見てニコニコしていた。そんなに面白かったのかな。

帰り道、キンモクセイの木を見上げた。ずいぶん散ってしまったな。もうすぐ冬だ。

この写真はたくさん咲いてた頃のもの。遠くから見ると、なんか魚卵みたいで美味しそうだなって思う。タラコの煮物ってこんな感じだ。