TV版の孤独のグルメがシーズン9を迎えた。予告編をしっかり見た。
観てすぐに、ある回のことを思い出した。
あれは確かTV版のシーズン2、沼袋で焼き肉を食べた回だな。ゲストの方と原作者の久住さんがご飯を食べてる場面。
ゲストの方が「孤独のグルメは余白の大きさが好き」だと仰っていた。久住さんも頷いていた。それを見ながら、私はカレーヌードルを食べてたっけな。そこまで覚えてる。
あの頃と比べると、今のTV版は余白にキチンと詰め込んでいる。予告編からでもそれが伝わってくる。
何を詰めているのか?一言で言うのは難しいけど…エンタメ要素を、かなぁ。
最近のゴローは、感情表現が豊かになったなと思う。今までも備わっていたゴローの魅力がより面白く、より伝わりやすくなってる。面白い。
一方で黙る時は黙る。肉を焼く時も集中して焼く。料理を魅せる。食事を見せる。静と動だ。メリハリ。余計にゴローの良さが際立つ。
番組が洗練されたことで、より”孤独のグルメ”らしく伝わるようになった、と言ってもいいのかもしれない。
しかし、それが私には合わなくなってしまった。面白いのに合わないのだ。
最近の作品では、ゴローの気持ちを、店の良さを、美味しさを伝えてくる。”孤独のグルメらしさ”を、面白おかしく真摯に、せいいっぱいに伝えてきてくれる。
誰に伝えるのだろうか?それは、見てる人であろうよ。
今の孤独のグルメは、もう孤独ではない。見てる人のために精一杯頑張っている。誰かのために、今の孤独のグルメはある。
いやまぁ、最初の頃からずっとそうだったとは思う。少なくない金額のマネーを動かして番組作ってるんだから。自己満だけで作るわけない。
ただ、初期の孤独のグルメはあくまで、あの男の昼飯の風景を切り取ってお送りしていただけのように感じた。予算とか色々で、そうすることしか出来なかったのだろうけど。
普通のオジサンが、昼飯を食べる時間に力を込めて、自分のために一喜一憂し、昼飯に救われていくあの様子。
それを遠くから眺めて、自分の気持ちや価値観、感情が生まれていく。
孤独のグルメの持つ要素と、私から生まれる要素が混ざり合うことで、それは私にとって唯一の作品になる。
今の孤独のグルメは、見る側――私が何かを考える暇を与えてくれない。無駄がない。あちらから放たれるメッセージの全てを受け取るだけで、お腹いっぱいなのだ。
飯を食べて感想を言う。その感想はもはや見る側のもの、見る側を楽しませるものの様に感じる。
それは多分すごく良いことなんだと思う。番組として。
自分たちが評価されている点を分かった上で、それを研磨してお客さんに還しているということだろう。素晴らしいじゃないか。
しかしそれではもう、私の思う孤独は、この番組から消えてしまっていることになる。
あのゴローはチェーン店を嫌う。洗練された、万人受けする、消費者を消費者として捉えているような店を嫌がる。今の孤独のグルメは、あのゴローが嫌がるチェーン店のような雰囲気を醸し出している。
ま、私は好きだぞチェーン店。デニーズに行くといつもはしゃいでしまう。
今思うと、私が孤独のグルメシリーズで好きだった”余白”とは、番組の中で用意された時間的な間のことではなかった。
ゴローと私の心の距離を、余白と捉えていたのかもしれない。今は私と孤独のグルメは近すぎる。
ありがとうゴロー。アマプラで過去のシーズンめっちゃ見ます。
ジャンルは全然関係ないのだけれど、よゐこさんのマイクラ実況にも同じことを思う。
エンタメ要素を詰め込めるだけ詰め込もうとするシーズン2よりも、何も分からず右往左往して、土ばかり集めたりマサルの財宝を探したり牧場の羊を殺したりする、あのシーズン1のゆるさが好きだった。
今まではそれを「ゆるさ」という言葉でしか表現してこれなかったが、今回自分なりに孤独のグルメのことを書いてみて、余白という言葉でも表現して良さそうだなと思った。
自分たちの持つ面白さが分かっている時よりも、分からないなりに戸惑いながら不確かな未来を探してるときのほうが、見てる時は楽しいものなのかも知れない。