wander around holding a soft oval

日記や雑記を書いています。それらの違いは分かりません。

失ってばっかりなのか

暑いのと寒いが繰り返される3月に、注文したフィルターが届いた。寒暖差にやられて何もかも億劫になっていたオイラだったが、この日はウキウキしながらフィルターの交換をした。

 

この空気清浄機を買ったのは10年くらい前か。千葉の富里に住んでいた時に購入したものだ。買った時は確か、製薬工場で派遣社員として働いていた。あの頃の生活はかなり辛かった。お金は無いし仕事は失うし、とりあえず就いた派遣の仕事先では年配の派遣社員の方から苛められるしで、良いことが無かった。

そんな中で空気清浄機を買ったのは、住んでいたアパート周りの環境があんまり良くなかったからだ。窓も扉も閉めていても、どこからか砂埃がどんどん入ってきて、朝起きると玄関近くの床がジャリジャリしていたし、エアコンはすぐカビるしで、空気がすごく悪かった。割とすぐに別の場所に引っ越すことは決めていたので、その間だけでもマシな環境にしようと、空気清浄機を買ったのだった。

買って帰って説明書を読むと「フィルターは10年くらい使ったら交換してね」と書いてある。10年!長い。持ちが長いのは良いことだが、10年もこの機械と一緒に暮らしていくのか、そして交換は10年に一回しか出来ないのかと、少し残念だった。換気扇のフィルターなんかすーぐ黒くなるってのに。

左が10年モノ。本当に同じフィルターか?

あれから10年くらいが経って、今は神奈川に住んでいる。こっちに引っ越してからも、この空気清浄機とは一緒に暮らしていた。週に一度は軽く手入れをし、半年に一度しっかりと掃除してやる。その度に「フィルターっていつ交換するんだっけかな」と思い出し、公式サイトを確認しては「うわぁ10年に一回でいいのかよ」と驚いていた。

ようやく10年たった。ようやく交換できた。10年に一度のビックイベントに思わず笑みがこぼれた。こんなに黒くなるものなのだな!半年とはいえ、時々はフィルターを目視で確認していたが、黒ずんでいく過程までは把握できていなかった。

水面に浮かぶ葉を眺めれば、川の流れを知ることは出来るが、川の流れそのものを目視で確認することは出来ない。同じように、時の流れを目視することは、出来ないのだなと感じる。

 

 

ここ最近は、精神的にも肉体的にも辛いことが多かった。暑いし寒いし、外に出るとアレルギーで酷い目に遭うし。仕事も大変だったし生活の面でも親戚やらなんやらと顔を合わせなければいけないことが多くあった。大嫌いな飛行機にも乗った。もう乗りたくない。

しかも何故か分からないが、”ここ最近”の間、Podcastを聞いても映像作品を見ても本を読んでも「死」や「喪失」をテーマにした内容が多く飛び込んできて、ずいぶん参ってしまった。

失うことは昨日も明日も起こることであるが、生についてや得ることについて取り上げた作品が、どうしてだかオイラの所にやってこなかった。めでたい話がぜんぜんない。辛いけど頑張ろうねとか、苦しいのが普通なんですよとか、あぁ辛気臭い。

暗い話ばかりがやってくることについて、その理由は色々ある。例えば「自分とその周りが老いたのではないか」とかな。受信する側も発信する側も年を取っていったら、じーさんばーさんばかりが集うコミュニティになっていくんだから、そりゃあそういう話ばかりになっていくのは仕方ないんじゃないか、ということだ。

大人が「若い世代からパワーをもらう」と言っている場面に遭遇したことがあるけれど、今は、あの言葉の意味が少し分かる気がする。若い人って、死や喪失から遠い。そうじゃない場合も沢山あるけど、でも年取っている人よりもずっと、遠いんだよな。

 

オイラは幾つかSNSをやっているんだが、その中のフォロワーが多分、多分だけど、死んでしまった。本人がそうしますと言って、そして更新が途絶えたので、そうなんだと思う。悲しい。

彼は自分を取り巻く社会に絶望していて、今にも死んでしまうのではないかと思っている。更新が途絶えたことに対して「どーせ別のSNSに行っただけだろー」とヘラヘラすることが出来ない。まぁ本当はどこかで生きているなら、それでいいのだけれど。

 

また別の話なんだが。友人とご飯を食べようという話になり、ではあのランチの美味いホテルに行ってみようかと検索をかけたら、そのホテルが最近閉業したと知った。そのホテルには結構お世話になっている。今年も一度ご飯を食べに行ったし、半年前はこっちに遊びに来た父母とそこで晩ご飯を食べたのだ。

料理も美味くて接客もすばらしく、なにより静かで落ち着く場所であった。静かということは繁盛していないということであったのか、それとも何か別の理由で閉業したのか、それは分からない。一身上の都合だそうだ。

 

失ってばかりだな、と感じてしまった。

先日、仕事が一段落ついて出かけた時に……ポスターだったかな……雑誌に書いてあったのか……忘れてしまったんだが、そこに大きく「サヨナラだけが人生だ」と書かれていた。以前にもどこかで見たことのある詩だった。それを見てオイラは「そうですよね……」と思った。

 

だが、心の中でぐっと「本当にそれだけかよ」と、踏みとどまった。どうして踏みとどまったのかは分からない。多分、そうやって世の理を知ったような気になって、カッコつけてニヒルな笑いを浮かべているオイラでいるのが、嫌だったんじゃないかなーと思う。自分以外の何かが失われるその事象と、自分の思想を重ね合わせる行為が気持ち悪く感じたというか。

出会いの後には別れがある。だからサヨナラだけが人生だ、それは少し違うと思う。サヨナラしてるのと同じくらい、もしかしたらもっと沢山出会っているんじゃなかろうか。自分がその出会いを、別れよりも軽んじているだけであって。

元の詩を書いた人はもしかしたら、何かを失い続けて、悲しい気持ちを知りすぎてしまったから、そんな詩を書いたのではなかろうか。少なくともオイラはそう思う。悲しい気持ちのときって、悲しいこと書くじゃん。

 

 

10年くらい前、空気清浄機のフィルターを交換している、その時間の経過を想像できなかった。それほど10年というのは長い。その長い時間をオイラは生きた。

仕事が変わり住む場所が変わった。家に砂埃が入ってくることはなくなったし、苛められるなんてあるわけがない。

もちろんゲームももりもりやってきたが、本を読むようにもなったし、英語の勉強もして、小さい趣味がたくさんできた。ゲーム実況だけが趣味だった頃と比べて考えられない。

Podcastで好きな番組を見つけ、仕事帰りにそれを聞いてニヤニヤ笑っている。その番組の中で死や喪失を扱った回は、自分が今まで聞いてきた中では、割合としてすごく少ないんじゃないか。笑ってばかりだったはずだ。自分で辛気臭い話ばかり頭に収めといてるだけではなかろうか。

SNSも始めて色んな人とお話して、そりゃあもう会わなくなった人、会えなくなった人もいるし、これからもそういう人は出てくるに決まっているけれど、少なくともそういう別れを経験できるくらいには、色んな人と知り合えた。

サヨナラするのはそりゃ悲しいけれど、サヨナラだけが人生だって結論づけるのは、それら全てを軽んじる行為じゃないか。別れを前提で出会いを楽しむんじゃなくて、そもそも出会いの方が沢山あるんだから、そっちに重きを置く生活だって悪くないぞ。

あ、すみません。詩を書いた人に書いているのではなくて、大して考えもせずに「そうですよね」と感傷に浸っていた自分に対して書いています。スッキリした。

 

また10年後には、フィルターを交換するのだな。それまでまた自分の足で、どんどん色んなものと出会っていこう。まずは友人とのご飯だ、どんな店に行ってみようか。