この記事に載っているカレーが美味しそうだったので、自分でも作ることにした。
ルーにはくたくたになるまで煮込まれたニンジンや玉ねぎが入っています。お肉(たぶん牛肉)は申し訳程度しか入っていません。 味はとても美味しいです。旅先の小さな食堂で出されるカレーに似た感じでしょうか。 じゃがいもは最後の一口までホクホクでした。
国会図書館カレー - 石仏石神を求めて
具材は特に変わったものは入っていなそう。人参と玉葱。肉は牛肉で小さめ。だけれども芋がごろんと入っている、ごろんというよりドカン!という感じ。そこが気に入った。皮を剥いた芋をじっくり煮て、そのデンプンがカレーにとろみを付けているのかな。カレールーの照りがいい。
家には玉ねぎと人参、カレールーは使いかけのがある。肉とじゃがいもがあればいいなと思って買いに出かけた。8月の初旬は先月の暑さよりずっと過ごしやすい。
カレーは去年よく作っていた。昼間に食べる用として、家にある野菜ひとつ、肉っぽいものひとつ選んで、それを炒めてゴールデンカレーの中辛をひとかけ。家にあればキムチや福神漬を炒めてから加えたりもした。今年はスープカレーを作ったりもした。難しいことは考えず、カレールーとラーメンスープの元を使う。クミンとバジルを加えたら、茄子とソーセージの余りを加えたものでも充分にスープカレーだった。
去年だったか、コンビニでビリヤニと本格的なカレーのセットが売られていて、オイラが所属しているSNS(マストドンという)でもそれが随分流行っていた。オイラも試しに食べてみたが、どうにも苦手だった。ジャリジャリして、溶け切ってないカレー粉を食べているようで。これは多分スパイスなんだな、これが本場なんだと言い聞かせて食べ進めた。全部平らげてから、ぬるま湯で口を濯いだ。
スーパーで芋と肉を買ってきた。うっかり豚こま肉を買ってきてしまった、あの記事では牛肉っぽかったのに。まぁ良いか、メインは芋なんだし。と言い訳をしてから作り始める。
ただオイラには、玉ねぎと人参をくたくたに煮込む時間がなかった。なぜなら腹が減っているから。他の品も含めて1時間以内に作り終えたい。だもんで、玉ねぎと人参は全部すりおろしてから炒めた。焦げ付かないように適時水を加えながら炒める。野菜の香り、特に人参の甘い香りで頭がクラクラしてくる。よき頃合いで水をぐおっと加えて肉を入れて一緒に煮る。ルーも加えた。煮込み終えると2つの野菜たちは影も形もなく、ただ味と香りがそこにあった。野菜の幽霊みたいだ。
同時並行でじゃがいもも調理していく。芋を柔らかくなるまで煮続けるには時間が足りないので、レンジでチンして皮を剥き、ある程度火が入った状態のものを、ほぼ完成に近いカレーに加えてやさーしく煮た。芋がメインのこのカレーで、芋が崩れてしまっては意味がない。そこだけは守りたい。
こうやって完成したカレーは、記事のものと全然違ったものとなった。まず豚肉が大きすぎる。すまない。めんどくさがって切り刻むことをせずに、パックからそのまま鍋に加えたから大きいのだ。これでは芋と同じくらい目立ってしまう。
そう、芋がむらさき色なんだ。この芋の名前はノーザンルビー。名前にルビーとあるように、切った断面がうっすら赤紫色をしている。スーパーでの買物中、なんか見慣れない名前の芋があるなー買ってみよーとカゴに入れたのだった。なんという計画性のなさ。生の状態だとうっすら赤紫って感じだったんだが、加熱するとつま先から腹の中まですべて、さつまいもの皮のようなしっかりとした色に変わってしまった。
本当は全てカレーに加えようと思っていたが、いざまな板の上に置いたら、大きすぎてカレー皿に入り切らないじゃん……と落ち込んだ。落ち込みついでに加熱したものを少し切って食べてみると、美味しい。元気が出てきたので、半分をつぶしてポテトサラダにした。
完成したカレーを食べてみる。スタンダードながら美味しいカレーだ。人参と玉葱の甘みと香りが良いし、豚肉が大きいおかげで食べごたえがある。なにより芋だ。しっかり煮てある、ねっとりとした芋を匙ですくい取り、カレーと一緒に食べる。カレーにも芋のデンプンが出ているので、これは芋で芋を食べているのと変わらない。うふふ。美味しい。
カレーを作りながら、ある人のことを思い出していた。
オイラの知り合いのAさんは、優しく気立てが良い。困っている人には手を差し伸べ、頑張った人にも頑張ってない人にも労いの言葉をかける。誰かを攻撃したりもしない。いろんな趣味と経歴を持ち、美味しいものが好きな人だった。
そういう人なので、周りからも人気があった。Aさんがいなくなった後、何日かに誰か一人は必ず「Aさん元気かな」と呟く。今でもそうだ。そう、Aさんはどこかに行ってしまった。
オイラはAさんのことが好きだが、苦手でもあった。ハッキリとした理由は分からない。いい人なのには間違いないのだけれど、Aさんがそばにいると、居心地が悪いなと思う時が度々あった。あるときは貧富の差を見せつけられたり、あるときは性の差を感じたり。意識の差もあるか。見せつけられると書いたが、オイラがそう感じただけで、なにかされたわけじゃない。嫉妬とか妬みとか(同じか?)、そういう気持ちもある。
ただ例えば、オイラが20分くらい悩んでようやく1つ買うことにした無印のちょっと高くて丈夫なタッパーを、Aさんは種類別で5つも6つも持っていたりとか。そういう些細なことだ。でもオイラはそういう些細なことを、ずっと覚えている。
そして、Aさんが良いとするものは周りも良いとし、その逆もまた然りなところが気に食わなかった。これはAさんのせいというより、本人の魅力と周りの圧力に対してオイラが気に食わないと感じているんだと思う。政治のこともそうだし、人付き合いのこともそうだ。なのでAさんが現れたとき、オイラはそそくさと逃げていた。
Aさんは、カレーにじゃがいもを入れることをとにかく嫌がっていた。いつものふんわりとした口調も変わり、吐き捨てるように「カレーが不味くなる」と言っていた。「じゃがいもは好きだけどね、カレーには…」と。
オイラは初めてそれを聞いてから、ずっとカレーに芋を入れずに作るようにした。あのAさんが不味いと言っているものをニコニコしながら食べている自分のことが、また惨めに思えてくる。それにそんなカレーを見るたびに、薄暗い気持ちがじわりと脳から溶け出してくるような感覚を味わうから。たかが芋ひとつで。
1対1で話す分には全く嫌ではないし、オイラが困っている時も助けてくれた、いい人なのだ。だのに、集団の中にいるAさんを見ていると、どうにも自分はその場から離れようとしてしまっていた。Aがカレーに入ったじゃがいもを避けるように、オイラも集団の中のAを避けた。
Aがいなくなってから数ヶ月経って、最初に紹介した記事を見かけた。じゃがいもがとにかく美味しそうで美味しそうで、作ろう!と思った。その時に「あぁ、もう気にしなくて良いんだな」と思い、寂しいような嬉しいような、そんな気持ちになった。
実は芋はまだ1個残っている。またカレーにしようと思う。