wander around holding a soft oval

日記を書いてます。人からはエッセイだとも言われます。

小さな日記のつめあわせ

 LINEのKeepメモ。私は買い物に行ったときに忘れないように記したり、スマホ→PCに画像を送る時によく使う。新たにアプリを入れなくても、すでに同期出来ているLINEでいろいろやり取りができて便利だなぁと思う。たまたま知った本のタイトルとかもメモしてる。

 それ以外に、日常であった小さなことも一言日記としてKeepしているのだけれど、その日記というかメモが結構たまってきた。ここらで放出、いや排出したい。なんとなく気になるから。どれも取るに足らないような内容の、他の人にとって、なんなら今の私にとってもどーでも良いことなんだけどね。

 

メモ:お口クチュクチュモンダミンや!

 ドラッグストアで日焼け止めを眺めていると、なんとなく騒がしいお客さんが2名ほど入ってきた。私はその時入り口に背を向けていたんだが、その客が2名であることも、今入ってきたなということも分かるくらいには騒がしかった。ただ、なんと喋っているかはボンヤリとしか分からない。多分関西の方なんだろう。

 店内のBGMが差し替わり、静かになったその瞬間、客の片方が叫んだ。「そうや!お口クチュクチュモンダミンや!」笑ってしまった。これが「除菌も出来るジョイや!」だったらそこまで面白くない。恥ずかしげもなく、お口クチュクチュと言い放つところが面白い。言葉の響きと勢いが。他のお客さんや店員さんは笑わなかったんだろうか。

 

メモ:ドトールでソワソワする

 新装開店したばかりのドトールで、コーヒーフロートを注文した。ストローの先がスプーン状になっておらず、また長いスプーンももらえなかった。取りに行くのも面倒なのでそのまま普通のストローで掬いながら食べた。

 30分くらいのんびりしよう、そうだ日記でも書くかと思い鞄に手を突っ込んだ。その時「レタスドッグと◯◯でお待ちの、13番のお客様ー」という大きな声が聞こえた(番号は忘れたので今テキトーに考えた)。この呼び出しは2回目だったはずだ。もう一度呼ばれる。13番のお客様ー。返事がない。ふむ、お手洗いにでも行ったのかなと、鞄からノートと一緒にイヤホンを取り出した。

 そこから前の日のことを思い出して書いてみたり、気になって動画を見たり、底のほうがちょっとシャリシャリしたソフトフリームを食べたりして過ごした。フロートを半分くらい飲み終えた時、また大きな声で「レタスドッグと◯◯をご注文された13番のお客様ー」と店員さんが呼んだ。誰も席を立たない。

 こういう時、自分はすごくドキドキしてしまう。昔飲食店で働いていた時の記憶が蘇る。あわわ、店員さん大丈夫かな。そして呼ばれている側の、つまり13番の客のことも心配になってきた。どうしたんだろう、注文したこと忘れて帰っちゃったのかな、ボケちゃってるのかな、それともトイレから出てこれなくなったのかな、子供連れでなにかあったのかも、うわわ。もういっそオイラが13番様のフリをして冷めたレタスドッグを貰ってしまおうか、いやそれはある意味犯罪か、どうしよう!

 こうなってしまってはもう、とてもじゃないが落ち着いていられない。フロートをガシャガシャとかき混ぜ一気に飲み干し、そそくさと店を後にした。あの後店員さんと13番様はどうなったんだろう。無事に食べられたかな。店員さん怒られてなかったら良いな。

 

メモ:関根大気

 駅前にユニフォームを着た親子連れが立っていた。子供の方がリュックを背負っている。背負うための肩に当たる紐(ショルダーハーネスというらしい)の間から「 根大 」という文字が見えた。…だいこん?大根が好きなの?大根が好きな野球選手でもいるのか?

 子供が水を飲もうとしてか、体をひねる。その時ハーネスもずれた。背中には「 根大気」と書かれていた。…こんだいき?なんかの四文字熟語なのだろうか。ほらあるだろう、一球入魂とか、疾風迅雷とかクラブTシャツに書きがちだろう、あれかな。でもナニこんだいきなんだろう、そんな言葉は知らんぞ、早くハーネスずれないかなーと思いながら、喉が渇いたフリをして私もその場で水を飲み始めた。

 子供が疲れたのかリュックを降ろしたぞ!しめた!オレの方に背中を向けろ!なんて書いてある……関根大気?それはどんな意味の熟語なんだ?せっこんたいきって読むの?え、見ても分からないなんて!今の子供達って、大人が知らない言葉をユニフォームに書くんだな~すごいな賢いな!と感心してその場を後にした。

 数週間後、SNSで関根大気さんを応援するツイートを見てようやく気付いた。

 

メモ:防災管理者朽木正成さん

 駅構内に「防災管理者・朽木正成」と書かれていた。黒字のパネルに明朝体で、しかも赤文字で。すごいカッコいい。黒字に赤で名前書かれることって人生でそんなに無いぞ。いいな。(なお朽木正成は仮名)

 

メモ:フォールアウト4みたいな光景

 Twitterで問題が起きたそうで、私が普段使っているマストドンインスタンスにも多くの人がなだれ込んできた。マストドンという別のSNSだと思ってくれていい。そこにたーくさんの人がやってきた。そのSNSには3000人くらいの人が登録しているんだが、5000人くらいやってきたらしい。本当かどうかは知らん。

 そのSNSを元から使っている人、Twitterから来たばかりの人、いろんな人が色んな感情をぶちまけていた。私はというと、その色んな人にDMを飛ばして話しかけていた。なるべく困ってそうな人に。大丈夫か、しんどいな、こういう機能があるぞ、良かったね、等などと。

 普段使っている~と書いたが、実を言うと、あまり使っていない。そこまでドップリとSNSに浸かっていない、と思う。朝と夜にご飯の写真を投稿するのが基本で、その他で1日平均一言程度しか呟かない。人と話すのは好きだが、集団の中でなにかをするのは色々思う所があって少し抵抗がある(集団というものに抵抗があるだけで、そこに属する人が嫌だという話ではない)

 なので自分は、元から使っている人、つまり原住民だぞと胸を張ってイバれるわけでもないし、かといって新参者というわけでもない。半年以上は使ってるし知り合いもいるからな。なので宙ぶらりんの状態で、あっちこっちに話しかけていた。

 その時ふと、フォールアウト4みたいだなと思った。

 フォールアウト4はちょうど私が今プレイしているゲームだ。核戦争が起きた後の世界を冒険する。詳しい話は端折るが、核戦争が起こる前にシェルターに避難する。そして戦争が終わった後、シェルターから出て、ポストアポカリプスな世界を生きていく。そんなストーリーだ。プレイヤーにとっては。

 戦争が始まる。世界が終わってしまっても自分はなんとか生き残りたいので、必死にシェルターに避難する。シェルターにはある程度の設備が整っているが、次第にその設備に対し不満が出てくる。管理者がアレだとか、人間関係がアレだとか、食べ物がもうないとか。そこで争う者も沢山でてくるし、そのせいで死ぬものもいる。シェルターは慈善事業ではなく、ある企業の利益のために運営されているので、そこに住んでいる人は運営側から知らぬ間にひどい目にあわされたりする。

 なんやかんやでもう生きていけないので、今度はシェルターから避難する。目的があって脱出するものもいる。外の世界を見てみると、見事に荒野だらけだ。シェルターにはあったベッドも、食べ物も水道も天井も何もかもが、そこにはない。自分の場所が存在しない。流れる水を飲めば毒まみれだし、ちょっと歩けば撃たれるし。カニはでかいし最悪だ。

 完璧にではないが、これと今のSNSで起こったことが、結構似てるなと思った。Twitterがシェルターで、Twitterの外側が荒野だ。私が使っているSNSが、ではなく、Twitterの外側がすべて荒野だと、あえて書きたい。なぜならTwitterから避難してきた人間にとっては、どこもかしこも似たりよったりだからだ。Twitterでないという一点において同じなのだ。朽ち果てていくシェルターはクソだが、この何もない世界はもっとクソだ。あああのピカピカだったシェルターに帰りたい、と思っていた人は、あのSNSの中にどれくらいいたんだろうか。

 元々そこに住んでいた人とも話して、シェルターから出てきた人も案内して、自分がやっていることがなんだか「チュートリアルに出てくる通りすがりの旅人のようだな」と感じた時に、フォールアウトのことを思い出し、似てるなと感じたのだった。

 似てたなぁという話を書きたかっただけなので、特にオチもなくこれで書き終えようか。でも書いてたら別のことも少しだけ書きたくなってきたな。

 その何もない荒野には、実はたくましく暮らしている人がいて、話の通じる人間も助けてくれる団体も少なからずいる。未開拓の土地ばかりだから好きに耕し放題で、知らないものが山程あるから発見し放題のお宝探し放題なのだ。

 シェルターには良い所もたくさんあって、そこからでしか見えないもの聞こえないものも沢山ある。しかしこの荒野でしか得られないもの、つまり溢れ出る太陽の光、あるいは嵐と共にやってくる毒素、または多くの出会いがある。シェルターから出た人間と再会しても良い、その穴ぐらには無かった自由があるんだから。出会いなんかいらない?なら建てた家に鍵をかけて暮せば良い、ちなみにシェルターと違って自分のスペース好きな所に好きなだけ用意出来る。

 もともと我々は自由だったはずだ。今立っている荒野に住んでいたが、なんらかの理由でシェルターに住むことになった。シェルターから出られたのなら、その自分の行為を避難などと言わず、冒険や開拓などと呼んだほうが、なんというか、楽しくなるのではないかな。とソロゲーマーは思うのだが、ああダメだなんだか説教臭くなったな。書き終えておけばよかった。

 ここで終わる。もちろんシェルターを故郷だと思って住み続けてもいい、それもまた自由だ。ちなみに先程「朽ち果てていくシェルター」と書いたが、私が使っているTwitterは特に問題なく見れている。別に朽ちていない。ひょっとすると私が使っているのはシイッ夕ーとかノ亻ッタ一なのかもしれない。

普段はここで活動しています。マストドンのアカウントは秘密です。

niconicohttps://www.nicovideo.jp/user/37168119

youtubehttps://www.youtube.com/c/MrMaruimono0427

ポートフォリオhttps://potofu.me/maru-tyokubai

 

コロナになった時の日記

はじめに

 5月から今日までの間に2回、体を壊した。うち1回はコロナだ。どちらも体が痛くて寝ていられないほどだった。GWが明けて今日に至るまで、それ以外特に大きな出来事がなかったので、コロナになった時のことと、思ったことを書こう。今はもう元気満々!とまではいかないが、こうやってブログを書けるくらいには回復した。ひどい時はPCの前に座ってられなかったから。では書く。少しフィクションを混ぜとくぞ、特定怖いからな。

 

-1日目

 夜頃から体調が悪くなり始めた。すごいスピードで全身の筋肉が痛みだす。自分の場合は風邪をひくと節々にくるのだが、今回は「この痛み、きたな」というより「もう来てんじゃん、玄関まで入ってきてるわこれ」という感じだった。

 この日は土曜。明日の日曜に空いている病院はあるか探すため、横浜市が運営しているサイトで調べることにした。私の家の近くには3件あった。うち1つは小児科だった。調べている時点で大分具合が悪かったな。とにかく身体が痛い。こういう時は「節々」と書くのだろうけれど、それだと節しか痛くなさそうだろ、違うんだ。股関節と太ももの前と肩と背中と腰と尻が痛いのでわざわざ”身体”と書いている。こういう時は早く寝るに限るんだが、横になっても縦になっても痛いので、椅子に座ってマッサージをし続けた。熱は36.9。

 それぞれの病院のHPには書いていない情報が、市のポータルサイトにはやたら詳しく載っている。この曜日は1時間早く受付するだとか、この日は午後の診察が終わる1時間前までしか受付してないとか。本当なんだろうか。行くと決めた病院は、電話予約を朝9時から受け付けているとのこと。HPには10時からと書いてあるが、果たして。起きられるか不安で、夜中にアラームをかけた。ヒマなのでTwitterを眺めていたら、リプ欄にオススメツイートが表示されるように仕様が変更されていた。こんな時でも私はなにかの宣伝を受けている。私に価値があると思われているのか。こんなに股関節が痛いのに。

 

0日目

 朝の7時起床。結局どこかで寝落ちしたらしい。9時までゆっくり支度をし、9時と同時に病院へTEL。すんなり予約が取れた。市のポータルサイトすげー。外は雨。本当は歩いて病院に行ければ良いのだが、そうは体調が許してくれない。バスに乗った。他に乗っている人たちに申し訳ない。すみっこでじっとしていた。咳が出なくてよかった。

 病院の前に来た。事前連絡の通り、エレベーター前に着いたことを病院に電話で知らせる。5分後に看護師さんが迎えに降りてきてくれた。多分、コロナの疑いがある人間にスンナリ院内に入ってほしくないんだと思う。ちゃんとしてる。三階に上がり、外の非常階段まで案内される。薄緑色の丸椅子がぽつりと置かれていた。ここがコロナ外来の診察”席”のようだ。電話で事前に連絡を受けていたので、あまり驚きはしなかった。むしろ気が楽だ。換気100%だもん。外の風に当たりながら待てるので気分が良いし。

 看護師の方々もお医者さんも、丁寧で朗らかな人たちだった。看護師の一人が、よく通うスーパーのおばちゃんくらいフランクに話しかけてくれて和んだ。そしてその人がインフルの検査もしてくれたのだが、今までで一番鼻が痛くなかった。やるなぁ。インフルの検査結果はマイナス。コロナの検査結果は今日の夕方頃に出るらしく、風邪用の処方箋をもらって家に帰ることになった。後に来た患者さんは同じく非常階段で待たされた。私よりひとつ上の踊り場で座らされていたのだが、お医者さんはその人のところへ階段を駆け上がって行っていた。それが私はなんだか嬉しかった。この病院好きだなぁ。

 フラフラのまま、ドラッグストアで色々買う。Mastodonのフォロワーさんから教えていただいたものを揃えた。そして美味しそうなクッキーも買った(オススメはされていないがとにかく美味しそうだったので)。家に変えるなり1枚食べた、案の定美味しかった。それから夜まで、もらった薬を飲んで安静にしていた。熱が全然引かない。もらった葛根湯じゃダメか、ダメだろうな。もう1つ別の、強めの薬も飲んで連絡を待つ。飲んだ辺りで汗がダラダラと出てきた。水を飲むが、飲んだ分すべて汗になっているようだ。私が飲んでいる水は浄水器を通して出来た旨い水だ、それが私の体を通って汚い汗に変わって出てきている。汗製造機だ。だんだんと熱が下がってきたが、これが汗のおかげなのか、強めの薬の効果なのかは分からない。

 18時頃に病院から電話が。結果はプラス。ですよねー。「風邪の延長みたいなものですから、あまり怖がらずに、とにかく安静にしていてください」とのこと。午前中の病院での対応から考えるに、おそらく私を励ますために風邪の延長という言葉を使ってくれているのだと思う。ありがとう。まぁ明らかに風邪より重いダメージを受けているのだが。熱は38.3。

 

1日~3日目

 身体が痛い。熱は38.6になったり、薬と汗で36.4に下がったかと思えばまた戻ったり。久々の高熱でドキドキする。コロナ用の薬をもらっていなかったことを後悔していた。高熱が出る度に、3月に北海道へ旅行に行ったときのことをブツブツ呟いた。SNSの向こう側に対してではなくて、布団に寝ている自分にしか届かない声で、言い聞かせるように呟く。「はこだての、朝に海鮮丼たべたな。ちょっと、あったかいマグロ、うまかったな。さっぽろで、雪印、パーラーのパフェがさ、美味しかったよな。」……なんだか走馬灯のようで書いていて笑ってしまったが、その時の私は少し違う思いで――未来のために、自分を生かすために、楽しいことを呟いてやっていた。またいきたいよな、と。

 ゲームを長くしていられないので、とにかく本を読んだ。村上春樹さんの「雑文集」を読み切った。「若い読者のための短編小説案内」という作品で初めて村上春樹さんの文に触れ、語り方、書き方、ものの見方に感動し、別のも読んでみようと思ってエッセイを借りてきたのだ。427ページもある。ふだんの私は児童書ばかり読んでいるんだが、読めるだろうか……と思いながら借りたのだが、読み切れてしまった。嬉しい。とても面白いな!

 あえてとても悪く言うなら、回りくどくてハッキリしない文章だ。しかし私はそのハッキリしない所が好きだ。丁寧というか、真摯だと思う。モノへの光の当て方も好きだし、何て表現すれば良いのかな……階段を登るように1段ずつ、いや違うな、RPGのような文章だなと思った。一見すると回り道をしているようだが、その行動には本人にしか分からない価値がある、それは冒険で得られる報酬とも違う、目に見えないなにかだ。それを一つ一つ集めながら最後まで旅をしていくような……AメロBメロがあってこそのサビのような……難しいな、もっと読んだら伝えられるんだろうか。

 動画もそれなりに見た、というか流していた。最初はよゐこさんの◯◯生活を流して、好きな人のラジオを流して、自分の配信のアーカイブを流して……こう書いてみたら、以前に見たことがあるものを何度も流しているな。実況プレイ動画を投稿して12年ほど活動しているが、じつは普段から人の動画はあまり見ない。面白くないわけじゃないが、好きじゃない。Eテレとかの方が好きだな。よゐこさんの動画、いつも同じところで笑ってしまう。有野さんの髪型の方向性が気になる。

 職場の事務の方からLINEが来た。ご飯は食べているか、なにか持っていこうかとのこと。厚意だけ受け取った。いつも庭で育てた野菜をもらっているが、今回ばかりはうつしたら大変だし、食欲自体はあったから。うどん、カツ丼、なんでも食べた。アイスも1日1本ずつ、ポカリと水を2リットル飲んだ。こんなに自分がモリモリゴクゴクやれているのは、味覚障害が出ていないのと喉が平気だからだろう。ひたすらに身体が痛いだけだからな。ただ買ってきたカツ丼がしょっぱく感じて、ご飯を少しだけ残したときがあったな。カツを全部食べるのが意地汚いなと自分でも思うんだが、”弁当がしょっぱくて食べられない"というのはあんまり経験がなかったので不思議だった。家で作っていたご飯が尽く薄味だったからかもしれない。

 

4日~5日目

 熱は大分下がったが身体は痛い。この辺りから胸に違和感を感じ始める。ひょっとして次は呼吸器のほうに影響が出始めたのか……私はぜんそく持ちだったから、これはいよいよ死ぬかもしれんな……と怖くなる。胸が痛むのだ。しかし、喉がひゅーひゅー鳴らず息苦しくもないのに胸が痛むのって少し変じゃないか。少なくとも呼吸器の異常ではない。ひょっとしてと思い、胸と脇をもみまくったら違和感が取れた。どうやら股関節の他に胸筋周りも痛みだしたようだった。そういえば整体師さんから「胸の筋肉が固いから猫背になりやすいですよ」と言われてたな。一人でわーっとなって一人で解決した。

 夕方くらいから動画に関係する作業を進める。少しだけだ、1時間も座ってられないからな。普段はとにかく収録が最優先なので、後回しにしていた細かい作業を進められた。今後の投稿予定をカレンダーで確認すると、ポケモン盾実況の動画のストックが7月に尽きることが分かった。もう6月の中旬だ、いつ撮ろう……もう6月の中旬なのか。先月正月だったのに。

 夜、コロナ1日目のことを思い出す。医者に陽性だと伝えられるまで、私はコロナに罹っていたがコロナと診断されたわけではなかった。病院へはバスで向かったし、帰りはドラッグストアに寄ったな。ひょっとするとこれまでも、私のような状態の人とすれ違っていたのかもしれんなぁと、ぼんやり思った。陽性かどうかは分からない、でも無自覚というわけでもない。健常者と罹患者の間の時間を、申し訳ないと思いながら過ごす、そんな人達と、どこかですれ違っていたのかもしれない。

 

6日目

 いよいよ外に出る。というか出なければいけない。本を返しに行きたいし、家に食べ物が、特に肉がもうないから。熱はすっかり下がり、胸や股関節などの痛みも取れた。電車に乗ると、若いサラリーマン二人がマスクを外しておしゃべりしていた。増えたな、マスク外す人。私は一生のうちにまたコロナにかかるだろう。そして私と誰かの間でコロナを移しあったりするだろう。お互い様だ。しかしだな、マスクはしておいた方が良いぞ。そんな至近距離で話すならさ。コロナると辛いぜ。……と思いながら、二人をじっと見ていた。私のほうが先に降りた。

 すく疲れてしまうので、あちこちのベンチで休みながら用事を済ませていく。これは重い風邪とはやっぱり違うな。症状が落ち着いてからも身体がしんどい。ただ怠いわけじゃない、頭から爪先までの身体の内側が軽いやけどになったような、ヒリヒリする感覚があるのだ。これがコロナか。まぁただ単に、私が痛がりなだけかもしれん。

 夕方にも外出。土手の方を歩いてスーパーへ。斜面に生えたセイタカアワダチソウなどがキレイに刈り取られ、刈られた草が新たな茎や葉を伸ばし、10cmほどの高さになっている。この6日間の時の流れを感じた。ずいぶんあっという間に過ぎていったのだな、6日もさ。いや、こんな思いはすぐ過ぎてくれたほうが良いに決まってるか。紫陽花が大輪の花、いやガクを咲かせていた。

 帰りに手に取った雑誌に、作家さんの連載記事が載っていた。ちょうどこの人もコロナになったことを、日にちごとに日記調でしたためていた。2行目くらいに「コロナから逃げ切れなかった」と書いてあった。なるほど、この人は今まで自分の力で逃げ続けてきたのか。今までは逃げていたが、とうとう捕まったと、そういうことか。

 私は……逃げていたとも、捕まったとも思っていない。罹っていない状態があって、それが罹った状態になった、としか捉えられない。確かに自分で努力して為る確率を下げることは出来るだろうが、結局は運だと、私は思う。人々は逃げ切れずに死んだのではない、不条理に罹って死んだのだ。どこへ逃げのびれるのだろうか、コロナのなかった過去の世界にだろうか。マザー2のギーグみたいだな、過去に逃げるのって。

 コロナになる前からも、そして今も、死は隣にあるという観念?が私の中にある。この雑誌を読んで改めて感じた。反面教師と言ったら聞こえが悪いか。自分の足でここに立てていると、やはり私には思えない。

 

今日

 夏日だ。天気がとにかく良い。今はこうやってブログの下書きを、休憩をはさみつつ書いている。先程7日ぶりに、プランターのパセリに水をやった。思ったよりずっと元気そうで、モリモリに生えている。小さな森になっているな。これはおそらく、私が自宅にいる間に何度か降った雨のおかげだろう。お前もたまたま生きていたか。

 身体の内側のヒリつきは、まだある。エアコンのせいなのか部屋が乾燥し、鼻の調子がコロナ時よりも悪い。ツーンとする。Mastodonで勧めてもらった点眼薬を、今日初めて使った。効果は未知数。来週から仕事は再開するが、上司と相談し少しゆるくしてもらった。とてもじゃないがこの体力で、先週のように働けない。

 ブログを書いては休憩し、洗濯を干しては休憩している。とにかく疲れやすい。コロナの影響で身体が弱くなったのか、休んで体力が落ちたからなのか分からない。はっきりしてほしいところだ。頭の上に※状態:ころな※とか※筋力低下※とか表示されてほしい。6日間社会から半ば切り離された生活をしていたが、6日ではそこまでの未来は来ていなかった。

 期間中、自分は運が良かったな~と何度も思っていた。今も思っているぞ。咳が3日間止まらなかった人、40度以上の熱が出た人、亡くなった人、いろんな人がいた中で、私は身体の痛みと熱だけで済んだし、全身ヒリつくが、一応生きているから。結局コロナの特効薬というものは貰わなかったな、貰っていたらこのヒリつきは無かったんだろうか。

 書くこともなくなってきたので、ここらで終わりにする。最後になるが、私がコロナに罹ったことを聞いて、温かい言葉をかけてくれた人、そして冷たい言葉をぶつけなかった人、ありがとね。

 

明日

 Yシャツの首に洗剤塗ってから洗濯をして、うどんを食べる。ハナマサマッサマンカレーが美味しかったから元気だったら買いに行く。

掃除してたら出てきた薬の空袋と紫陽花を見てお別れです。さようなら。

本を寄贈した日の日記

本を読み終えたので、それを持って図書館に寄贈しに行った。

北海道へ旅行に行った時「地方の出版社の本を買うと面白いよ」と言われ、買ってきた本だ。札幌に生息するカラスにスポットを当て、カラスの生態について丁寧に、優しく解説している本。カラスの挿絵もすごく良い。つまらなくても面白くても、買った本は大体寄贈している。ボロボロならそのまま捨てる。

寄贈し終えて、喫茶店でひとやすみすることに。水出しコーヒーがもう出ていたので注文する。借りてきた本を眺めたり、ノートに日記を書いて過ごす。3つ隣のテーブルの老人は足が少し悪いようだった。いざ歩くとスタスタと行くんだが…ONOFFがうまくいかないみたいで、注文して席に着くだけでもなかなか大変そうだった。

ぼーっとしていたら、ふと先日聞いたラジオのことを思い出した。

作家さんが読者からの手紙を読むコーナー。図書館ではまだ作家さんの本が置いていなかったとの一文に対して作家さんは「買えよ」と突っ込んでいたな。図書館という記憶のつながりで思い出せたんだろう。

SNSで度々「図書館で借りましたとの報告はあんまり嬉しくないです」と、作家さんや編集さんが発言しているのを見かけた。どれだけ読まれてもお金が入っていかないもんなぁ。そりゃあ嬉しくないだろう。特に今は本が売れないらしいし。

そのことを気にして、私は図書館を使わないようにした時期がある。私がいくら本を楽しんでも作家さんに一円も入らないのは申し訳ない、しかし本を買うほどの金はないので、本は読まずに過ごそう、と思っていた時期が。

友人に自分の考えを伝えると「こうこうこういう理由で図書館で本を借りるのは当然の権利だから一切気にしなくて良いぞ」と言ってくれた。友人は社会学を学んでおり、おそらくその観点からも(そして友人であるという理由からも)私の行為を正当化してくれたのだと思う。おかげで今日も、寄贈したついでに何冊か本を借りることが出来た。

だかしかし、嘆いていた作家さんや編集さんの気持ちも分かるのだ。いや作家ではないので完全には分からないのだが。誰かにとって当然の権利があろうがなんだろうが、生きるためのお金が入らないのは困るだろ。うーん。

買って読んで欲しい作家もいれば、借りてもいいと思う読者もいるのは普通のことだ。互いに立場が違うのだから、その立場でしか論ずることしか出来ない。と思う。私がいくら頭を捻ろうが他人の意見を聞こうが、それを踏まえた上での自分の心と体でしか、モノを語れないだろう。私は私以外ではないから。

 

そういえば、先日SNSで「好きな本読んで好きに影響受けたら良いじゃ~ん」などと発言をしていたら、ある作家さんに直接説教を受けたというか、釘を刺されたのだ。引用RTっぽいこともされた上で。”本は娯楽として読んでほしい。小説は嘘の話なんだから影響を受けすぎるのは困る”と。”出版した小説の影響で作者やその家族、出版社にまで被害が及ぶことがある”と。それは知らなかったので謝った。ただその方にもお伝えしたが、私はモリッモリに影響受けて生きている変人なので、それを聞いても自分の考えは変わらないとも答えた。

そのことを喫茶店でコーヒーを飲むまで忘れていたのだが。釘を刺された話と、図書館の本を読まないで欲しいという話も、作者と読者という立場?による考えの違いが関係するものなのかな。と思った。

図書館で自分の本を沢山読んで欲しいと思う作家もいるだろうし、悪影響だろうが構わないと思う作家もいるだろう。それは個人によって違う。私を励ましてくれた友人や、釘を差した作家さんが正しいかどうかは、分からない。ただただ自分の主張があって、それを発しただけのことだろう。その言葉に聞く側の(あるいは別の誰かの)立場を慮る(で合ってるのか?)考えはない。別に無くてもいいと思う。言いたいことを言えば良い。私も聞き入れたければ聞き入れる。

 

コーヒーを飲み干したので、荷物をまとめて店を出る準備。気がつくと、3つ隣のテーブルにいた老人がいなくなっていた。テーブルには空のコップやサラダカップのゴミがそのまま置かれていた。あっそういえばあの老人、食べ終えたらすぐ店から出ていったな。ここは客に片付けさせるシステムなんだが、爺さんったら忘れていったのか。

いや、もしかしたら、片付けられなかったのかもしれない。あの老人は足が悪い。食べ終わった自分の盆を、数メートル先のダストボックスの所まで運ぶことを諦めてしまったのかもしれない。横断歩道まで行かず、その数メートル手前で横断しようとする老人のように。足が悪いとその数メートルが辛いのだ。

店員さんはこのゴミをどう思うのだろうな、と考えて、席を立つついでに爺さんのゴミも片付けた。店を後にし、魚を買って帰った。鯖が好きだ。

寄贈した本と借りてきた本を見ながらお別れです、さようなら。

日焼け止めを買いに行った日の日記

 朝になるとエアコンを止め、夜になるとエアコンを付け出す時期。

 昔、エアコンはこまめにオンオフするよりも常時稼働させとくほうが電気代が安いと聞いたけれど、最近では何時間使うなら点けっぱの方がいいとか、色々話が出てるよな。難しい。電気代が高くなるだろうから心配だ。と書いてから、キッチンの電気が点けっぱなしなのに気が付いた。今バチバチと消してきたぞ。

 

 4月になったことで花もどんどん咲いており、とてもいい。ハナニラタンポポシバザクラも綺麗だし、ユキヤナギもあちこちでしゃわしゃわと揺れていた。だが今年は近所の人んちにある、ミモザの開花を見れずじまいだったな。可愛い花だよな。あれって花が散るとサヤエンドウみたいな種が出来るんだけど、その種を貰えないものかと毎年思っている。まさか木からむしり取るわけにもいかないし、地面に落ちていても拾ったらよくないよなぁ、じゃあ風に飛ばされて10mくらい離れたところなら拾って持って帰ってもいいのかなぁ、とか邪なことを考えていると1年が過ぎていく。

 そろそろ日焼け止めが必要になってくるなと思い、引き出しから持ち出したのだが、それが随分軽くなったことに気がついた。この量では夏は越せまいよ。友人と会ったついでに、新しい日焼け止めを買いに行った。

 ドラッグストアを2軒回ったが、自分が使っている日焼け止めが無い。自分は肌に負担がかかりにくいSPF35のものを使っているのだが、あっちもこっちも50以上のものばかり。テスターをアレコレ試すのだが、どうしても手が痒くなってしまう。つけ心地は良いのに。僅かに並ぶ35の日焼け止めは使い勝手が悪かったり高価だ。くまさんの形はかわいいが。

 今年の日焼け止めは、綺麗な肌に見せるために色を混ぜたり白くさせたりするものが多い。去年もその流れはあったが、今年はより多くなった印象だ。皆焼きたくないのか?そりゃそうか、だから日焼け止めを塗るんだもんな。塗っても取れるときは取れるだろうから、弱いものをこまめに塗るくらいで良いと思うのだが、面倒くさがりなのかもしれない。あと化粧してるとまた違うだろうしな。

 3軒目に入った店は、どちらかというと化粧品を多く扱うところで、店員さんがウロウロしている。すぐに声をかけられた。SPFが低いものはどこかと聞いたが「低いのはもう全然なくて50が主流です~その代わり美容成分を入れることで肌のダメージを」などと言っていた。ケチャップを水で薄めてもケチャップの色は着くだろうに、何を言っているんだろう。

 「今はこれが人気で雑誌にも」と仰っていたそれを、私……ではなく友人に勧めた。ついて来てくれた友人は女性であったのだ。私がポカンとしていたら「男性の方にもオススメですよ~」と塗られた。塗ると手の甲に薄い桃色が纏わりついた。「美容液でトーンアップなのできれいな肌になりますし、ウォータープルーフでナントカのカントカなんですよ(長くて忘れてしまった)」と勧めて下さったが、嫌な気持ちになったので店を出た。

 数分後、手の甲が痒くなってきた。エスカレーターの上で手を擦り、トイレまで駆け込み、備え付けの石鹸でゴシゴシと洗い流した。私の地黒の肌が出てきてホッとした。

 美白したけりゃするといいし、肌の色を変える自由だってあっていいと思うが、人間それぞれが持つ地肌の色はこうでなければダメだ、というのはちょっと変だ。世の人間全てが、それぞれの理想を求めて化粧なりスキンケアをするものだろうけど、その理想を一緒くたにするのは、面白みがない。野に咲く花にも色が暗いもの薄いものがあり、それを楽しむ者もいる。私は花屋の花ではない、そこらへんの草花のつもりだ。

 結局この日は日焼け止めを買えず、クレープを食べて終わりになった。でも無印で乳液を2種類買えたのでよし!スキンケア用品を選ぶのはとても楽しい。自分の肌とにらめっこしながら、あーでもないこーでもないと、自分なりのデッキを組んでいくのが良い。もっとも強いデッキというのが存在せず、自分の肌や生活習慣・環境に合わせて選んでいくのも個性が出て面白いし、なによりそのケア用品たちのデザインがあれもこれも素敵だからたまらない。

 化粧をする楽しみが性別年齢問わず提供される世の中になりつつある。もうなってるか。今から生まれて育っていく人間は、化粧を当たり前の趣味と捉えて生きるのだろうよ。私はそうではない。古い人間なので、男性が化粧をするのはちょっと…という世で育ってきた。

 それで良かった。もし化粧品にまで気軽に手を出せていたら、私は間違いなく破産するだろうから。そんなことを考えてAmazonを見ていたら、私が使っている日焼け止めが売られていた。へっへっへ、オイラの主流は35だぜ。

買った乳液と芝桜を見ながらお別れです、さようなら

目薬いらなかった日と読書の日記

右目が痛いので目薬をさすことにした私だが、目薬生活1日目にして早くも目がぜんぜん痛くない。良いことではあるのだが、どうも腑に落ちない。これは目薬の影響なのか、それとも自分が大したことのない疲れ目を過剰に痛がっていただけなのか。後者の可能性も捨てきれない。だったら目薬いらなかったじゃん!と少し悔しくなる。

私は痛がりだ。剣道部の時小手を打たれ、防具を付けているのに痛くて耐えられなかったことがある。周りは全然痛がらないのに、私だけ痛くて無理なので、早々に幽霊部員となってしまった。半年前も、突然歯が痛みだしたので歯医者に行ったら、どう検査しても異常がなくて笑われたのであった。私は痛みに敏感なのだと思う。目は心配だから、残り9日欠かさずさそうと思う。もったいないし(目薬の消費期限があと9日なので)

 

目が痛くないのでガンガン目を使っていく。今日は「直感で解く算数」と「ペスト」を少しずつ読んだ。前者の方は読みやすい。どうやらPHPサイエンス・ワールド新書の本が好きなようだ。というか新書が好きだ。すべての本は一旦新書で発売して、人気が出てから愛蔵版として文庫なり単行本なりになってほしい。新書の読みやすさったらないぞ。

後者の方は厚さにたじろぎ、思わずあとがきから読んでしまった。これ読めるかな…と不安に感じた時は大体あとがきから読む。で、いけるかもと思ったら読む。普段はこんな難しそうな本を読まないんだが、以前読んだ「高橋源一郎飛ぶ教室」の中で紹介されていたので、読みたくなった。本がキッカケで本を読むこと、結構ある。

 

高橋源一郎飛ぶ教室 はじまりのことば」は読んでいて面白かったが、どこか寂しさを感じる本だったな。1冊の本と過去の記憶を交えた短いエッセイ、それらをまとめてある本なのだが……エッセイ一つ一つは面白いし、時に読んでいる自分が励まされたり温かい気持ちになったりもする。けれど、筆者である高橋さんが、今の世を憂いてばかりというか。昔は良かったな~とは直接的に書いてはいないにしろ、そう感じさせる文章が非常に多かった。年寄りの昔は良かった論なんぞ、いつもなら鼻で笑って終わりなのだが、今回はなんだか寂しかった。

本のタイトルに「飛ぶ教室」と書かれている。これはケストナーの児童文学小説のタイトルであり、高橋さんもそこから取ったと、その理由も含めて紹介している飛ぶ教室は最of高なのでこの銀河系に住む者は全員読むように)。私は、飛ぶ教室に登場する主人公らは、みな未来を見つめて今を精一杯生きていたように思うのだ。一方で高橋さんは過去ばかり見つめている。その対比というか……なんだろうな、同じタイトルを借りているのに姿勢が正反対であること、そしてそれは高橋さん本人の人生がそうさせているということが、寂しかった。本は人を作るかもしれないが、人は本だけで出来ていない。

 

もうすぐ4月だが、去年ほどではないが本は読めている。ペストは返却期限までに読み切れるだろうか。目薬は使いきれないだろうな〜

枯れかけたストック(花)の写真でお別れです、さようなら。

 

目が痛む日の小さい日記

なんだが目が痛む。右目9:左目1くらいの割合で痛い。日焼けした肌のようなヒリヒリ感がある。眼精疲労かと思い、あずきのチカラを温めて瞼の上に置いて休んでいたのだが、あまり回復しなかった。というより、右目で熱を感じにくかった。これはどういうことだろう。花粉症なのか。よく分からないので目を休めたいんだが、そういうわけにもいかない。

明日から私は忙しくなる。仕事でバタバタするので、趣味に時間を割くことが出来なそうだ。だもんで今のうちに楽しいことをしておきたい!のだけれど。私の趣味はゲーム・動画編集・物書き・読書・編み物。どれもこれもインドアで、しかも目を酷使するものばかりだ。さっきまで横になって目をつむっていたが、もー退屈で退屈で、こうして起き上がり、右目だけ長いまばたきをしながら、ここまで文章を書いた。

しかし結局目が痛むので、諦めて寝てしまった。

次の日。起きて静かに左目を開ける。ゆっくりと右目も。なんとなく痛くないような痛いような。支度をしてドラッグストアに目薬を買いに行った。この日の最高気温が23度とかぬかしているので、半袖だけで外に出た。ちょうどいい!ちょうどいい季節がやってきた。二十四節気で言えば春分。日陰は涼しく日向は暑い、これを交互に楽しめる、いい季節だ。

目の前の道が工事中で、コンクリートが剥がれ土がむき出しになっていた。遠くにいるベビーカーを押している女性が、コンクリの段差に難儀していた。工事現場の方が女性と一緒になってベビーカーを持ち上げていたな。良かった。私は土の感触を味わえて満足だが、大変な人もいるに決まってるな。あの女性も、土の感触を味わいながら子供のことを考えていただろうか。

ドラッグストアでジュースやら目薬やらを買った。目のかゆみにはアルガード♪でおなじみのアレだが、防腐剤が入ってないとのことで選んだ。消費期限が10日ほどで切れてしまうそうだが、その方が諦めがついていい。ずっと目薬を保管しておくことのほうがめんどくさいけど、貧乏性なので取っておきたくなるのだ。皮膚科で処方してもらった塗り薬、まだ薬箱の中にある。9割も使ってないのにね。

ユニクロの巾着バッグを振り回しながら家に帰る。これ、小さくて軽くて構造がシンプルで良い。大きなポケットを持ち歩いてるような気分だ。財布カギ水筒スマホ、これを入れても余裕がある。それらを手に持って歩くのは大変だし、ポケットをパンパンにするのは好きじゃない。ジャラジャラするのも気になるし(自分のバッグの金具がチャリチャリ鳴ることすら気になってしまう。気にしいだな~)

家に帰ってPCをつけると、WBCで日本が優勝したっぽい。おーよかった。自分はあまりスポーツに興味はないが、それをプレーする人、それを応援する人が楽しんでいるのを観るのは好きだ。スポーツ観戦観戦が趣味です。でもキューバの選手がアメリカに負けた後亡命したというニュースも聞いたので、いろいろあるよな~とも思う。なるべく皆が楽しめれば良いよ。ね。野球で思い出した、一昨日モールを歩いてたら、化粧品売り場に大谷選手の広告が貼ってあった。もちろん化粧品の広告だ。嬉しい。たしかに肌が綺麗だが、どんな化粧品使ってるんだろう。運動が良いのかな。とにかく、色んな人が自分の身体・見た目を良くして楽しめると良いよな。

ここまで書いたらまた少し目が痛むので、目薬をうつ。今日はこのくらいにしておくか。良くならなければ眼科に行こう。いや、本当は明日にでも行けば良いのだが…もし行ったら「じゃあお薬出しますね~」って目薬処方されるだろう?そーなると、今あるアルガードの出番がなくなってしまうじゃないか。せめて5日分使ってから病院に行きたい。まったく、貧乏性なんだから。

ユニクロの袋とアルガードでお別れです。さようなら。

北海道旅行をして思ったことその1

先々週、北海道に旅行に行った。3泊4日の予定だったが、最終日に飛行機が雪で飛ばず、1泊増えた。4泊5日の長旅だ。今までの旅では最長。実家に帰省した時ですら、ここまで長く、自分の家以外の場所に泊まったことはない(実家は家ではあるのだけど)。アパホテルに3泊した。

北海道から神奈川に帰り、次の日は仕事だった。しかしその日はとてつもなく暇で暇で。出勤しなくても良かったんじゃないか?と10回は思った。上司からも言われた。

 

”北海道”は良いところ…だったと思う。いや、ごめん。正直あまり良くわからない。旅自体はとても楽しかったのだが、北海道らしい旅を出来たのかどうかは、分からないんだ。

北海道で食べたものはどれも美味しかった。寿司、ラーメン、カレー、ジビエ料理雪印パーラーラッキーピエロにも行ったな。最高だった。だが、最高に美味しいものならどこか別の場所に行っても食べられると思う。お金さえ払えば。北海道だから一番美味しいな~というものを味わったかどうかは、よく分からない。

北海道は雪がすごかったが、それは岩手も秋田も同じなので正直良くわからない。雪に慣れすぎているからな。レンガ倉庫で色んなお土産を見たが、神奈川にも赤レンガ倉庫があるので、それも特別感はなかった。むしろ札幌駅の前にあるでっかい本屋さんや、函館にある全フロア無印良品の建物に興奮してしまった。

珍しいお土産も買ったし頂いたりしたが「珍しいもの」は北海道以外にもどこにでもある。私は旅行をしたことがないので、どこに行っても珍しいものしかないのだ。先程ラッキーピエロの話をしたな。ラキピは北海道にしか無い珍しいものだが、神奈川にしか無い珍しいものだってあるだろ?珍しいものというカテゴリで分けてしまうと、珍しくなくなってしまうんだ。

北海道らしいな!と思ったのは、移動時間の長さだろうか。札幌から函館まで数時間電車に乗って移動。帰る時も同じように移動した。神奈川から北海道への飛行機移動のほうが短かった。これはおそらく北海道らしさではなかろうか。それが良いところかどうかは分からないけどな……でも移動中ずっとSwitchのメトロイドドレッドというゲームをプレイしており、移動時間内でクリア出来た。ハードモードまでクリアした。それほどボリューミーな移動だった。

「らしさ」を感じるためには、それなりの未経験と経験が必要だと思う。私は旅が未経験なので、北海道の特徴を掴めなかった。そして雪国は経験済みなので、そういう意味でも特徴を感じ取れなかった。多分そういうことなんだろなーと思う。

しかし、この北海道に行った経験は、間違いなく私の血肉になったと思う。もう一度北海道に行って「あぁこの感じ変わらないな」でも「変わったな」でも感じたのなら、それはもう十分に北海道を経験していると言えるんじゃないかなーと思うのだ。再びラキピに行ってバーガーと焼きそばを注文し腹がはち切れんばかりに食べ、そこで北海道らしさを感じられるのかもしれないのだ。

ということを、北海道から神奈川に帰ってきて、すぐ支度してまた出かけ、隣町の喫茶店でコーヒーを飲みながら考えていた。

この時私はスマホを家に置いてきた。わざとね。

 

旅は誰が作る

実は北海道にいる間も、移動中も、帰ってきてからも、大きな旅をした実感が無かった。日常の延長線というような感覚に近い。ちょっと遠くで美味いもの食べたよーくらいの気持ち。新鮮ではあったが達成感も旅情も湧かなかった。どうしてだろう?と、成田空港から横浜駅へ向かう電車の中で考えていた。

横浜駅から相鉄線を使って二俣川に行ったことがある。同じく横浜駅から東急を使って乗り継いで渋谷に行ったこともある。どちらもいつも行かない場所なので、降りる度にワクワクする。逆に言えば、それくらいにしか、北海道に降りた時もワクワクしなかった。電車に乗りさえすればどこにでも行けてしまうから、北海道も二俣川も、離れてはいるが繋がっているように感じてしまっている。のかもしれない。

旅情が湧かなかった2つ目の理由は、スマホにあるんじゃないかとも思った。旅先でも珍しいもの美味しいものを沢山スマホで撮った。路面電車もモバイルPASMOで乗れた。考えたことをスマホにメモし、SNSに投稿した。景色の一部が、旅の時間が、50平方センチメートル程度の電子機器で切り取られている。神奈川にいようが、北海道にいようが、スマホから見えるものは変わらないし、スマホが見ているものも変わらない。スマホを通してしまうと、ただの日常でしかなくなる。と思ったのだ。

そこで、スマホを持たずに出かけてみたのだ。財布から小銭を出しいつも行く場所の切符を初めて買い、いつもの喫茶店でコーヒーを注文し、飲みながらメモ帳に手書きでアレコレ書いたり本を読んだりした。

たったこれだけのことで、すごくワクワクしてしまった。そして小さな小さな旅情を味わえてしまったのだ。

自分はなんて安上がりなんだろうとも思ったし、こんなことなら北海道旅行の初日でスマホ捨てればよかったなとも思った。そして、こんな小さなことで非日常を味わえるなんて面白いなとも思ったのだ。そう思った瞬間、北海道で感じた北海道だけの空気が、頭の中にどわーっと広がった。あの場で私が感じていたことは全て特別なものであった。それを石ころ程度に留めていたのは自分だったのだと、ここで理解した。

日常と非日常は、遠くにあるようで実は肉薄しているのかもしれない。新しい花を生けたら「いつもと違う日だ」と言えるし、旅先で花を見て「いつもと同じ日だ」とも言える。旅行に行ってもいつもと同じ日常を送ることだって出来るし、その中で自分が無意識に非日常を味わっているのかもしれない。旅の中で生活は出来るが、生活の中でも旅情は味わえるのかもしれない。

 

と、メモに書いたところで店が満席になっていることに気が付き、家に帰った。日常を特別にするのは自分であり、特別な世界の中で日常を生み出すのもまた自分なのだな。北海道で面白かったことを沢山思い出したので、また今度書こうと思う。

電車の中のセコマの唐揚げ、函館の海の奥にコメダ。日常と非日常。